初挑戦の1万Mで世界陸上代表の衝撃…“破天荒プリンセス”絹川愛が「天才女子高生ランナー」になった日「何も知らなかったのが良かった」

仙台育英高時代に大阪世界陸上1万mの代表に選ばれ、「平成生まれ初の日本代表」となった絹川愛さん。その後は紆余曲折を経て2017年に現役引退、2018年には人気テレビ番組『消えた天才』にも出演した。そんな絹川さんが突然、驚きの発表をしたのが今年4月のこと。若くしてその才能を開花させた「天才女子高生ランナー」時代の苦悩、陸上界がザワついた衝撃発表の真意、今後の人生について、本人に聞いた。〈全3回の1回目/つづきを読む〉

「とくに新聞記事の影響が大きかったですね。受け入れてもらえた感がすごくて、ちょっと意外でした」

 そう言って、絹川愛は笑顔を見せる。

 事の発端は4月1日、自身のXにこんなポストを書き込んだことだった。

「今年 陸上の活動を再開することになりました。どこでどんなことをするのか…随時Xでお知らせしていくつもりです」

 エイプリルフールのつぶやきだが、ウソではない。

 後を追うように、5月7日付けのスポーツ報知に、絹川のインタビュー記事が掲載される。そこで明かされたのはさらに驚きの内容だった。

 現在、男装のコスプレイヤー”蓮弥”として活動している。「2021年から2年連続でコスプレ界で著名な雑誌『コスプレイモード』のベストコスチューマーを受賞」するほど知られた存在だという。そしてここでも「第一と第二の人生を合わせた第三の人生を歩んでみようかな」と、陸上との二刀流に含みを持たせた。

 いったいどういうことなのか、と世間がざわついたのも無理はない。なにせ、陸上界からしてみれば、あの絹川愛なのだ。

かつて「天才女子高生ランナー」だった絹川

 中高生の頃から中長距離種目で活躍。2007年の世界陸上・大阪大会には、「平成生まれ初の日本代表」として高校生で出場を果たした。2015年3月に実業団のミズノを退社するまで、浮き沈みの激しい競技人生だったが、天稟の才があったことは間違いない。

 再開がもし現役復帰を意味するのであれば、それがどこまで本気なのか、関係者が知りたいのはそこだろう。

 絹川の耳にも当然、そんな声が届いているようだ。

「とくに来年、ちょうど世界陸上が東京で開催されたり、26年のアジア大会が名古屋だったりする中で、競技再開ってどういうことよって。私も動くならずっとこのタイミングだなって考えていたので……」

 陸上競技に帰ってくるということは、そこに未練があるということなのだろうか。結論を急ぎたくなるが、行く末について尋ねる前にまずは来し方を振り返ってみたい。

初挑戦の1万mで世界陸上の標準記録を突破

 絹川の才能が広く世間に知られるようになったのは、仙台育英高に通う高校生の頃である。

 2005年、高校1年でインターハイの1500mで3位に入ると、その冬には全国高校駅伝で2区12人抜きの快走を演じた。さらに3年生になると、実業団選手に交じってグランプリシリーズに参戦する。4月の兵庫リレーカーニバルで初の1万mに挑み、そこで31分35秒27の高校記録を叩き出した。これは当時の世界選手権A標準をも上回る好タイムだった。

 勢いそのままに日本選手権に初出場を果たすと、絹川はそこでも福士加代子、渋井陽子に次ぐ3位に入り、高校生ながら世界陸上・大阪大会の1万m日本代表に選ばれる。

 インタビューで答えた、「トラックとマラソンの女王の次に入れて、プリンセスになれた気がします」というコメントも、当時は話題となった。

「ほんと、あの頃は破天荒プリンセスでしたね(笑)。練習でも1万mは走ったことがなかったし、参加標準のことも知らなかった。日本選手権もそれこそ『雑誌で見たことがある選手と一緒に走れるんだ』って感じで……。でも、いま思えば、何も知らなかったのがかえって良かったのかもしれない。どこで苦しくなるのかとかもわかっていなかったから、とりあえずもう1周、あと1周って、無我夢中で走りきることができたので」

 世界陸上では逆にその経験の少なさがあだとなった。

 海外勢のスピードに翻弄され、終盤にペースを落として14位。世界の壁に跳ね返された。高校生ランナーとして健闘したとも言えるが、自身の才能についてはどのように考えていたのだろう。

「私は本当に体も小さかったので、練習も控え目に、わりと自由に育てていただいたんです。よく言われたのが『軽自動車にスポーツカーのターボエンジンをつけたような体だね』って。練習よりも試合を重ねて強くなる。いつも120パーセントの力を出して帰ってくるから、しっかり休んでまたって感じでした」

 高校卒業後はミズノに入社。駅伝チームのない実業団に有望な長距離選手が入るのは異例のことだった。高校時代からの恩師である渡辺高夫氏とマンツーマンで世界を目指したが、この頃、膝や腰などたび重なるケガに苦しめられた。ウィルス性の感染症でも離脱し、2008年の北京オリンピックの選考会には出場すらできなかった。

 その後、2008年10月に自身が持つ1万mの記録を31分23秒21(※当時のU20日本記録)まで伸ばしたが、冬にまた風邪をこじらせてしまう。一時は寝たきりになるなど、重篤な状態だった。

「多分、風邪の菌が三半規管に入ったんだと思うんですけど、あの時は原因不明と言われて、めまいがずっと続いて苦しかったですね。病院でCTを撮ったんですけど、私、上を向いた瞬間に気絶したんですよ。外を10分歩いただけでも吐いたりして、これはもうやばいなって……。でも、時が経つってすごいですね、なんかこの病気も解明されたみたいです。病名を聞いて、『あっ、これ私がなったやつだ』って思いましたから」

不調を克服し2011年、2度目の世陸代表に選出

 印象深いのは、ロンドン・オリンピックを翌年に控えた2011年のシーズンである。

 復調間もない状態ながら日本選手権に臨むと、5000mでぶっちぎりの優勝を飾る。2位に入ったのが、2歳年上の新谷仁美(女子1万mの現日本記録保持者)であったことからも、当時の絹川の強さが伝わるだろう。

 ホクレンの1万mでも日本歴代4位となる31分10秒02をマークし、両種目で世界標準を突破。自身2度目となる、世界陸上・大邱大会への出場を決めた。

 なぜこの時、鮮やかな復活を遂げられたのか。当時、東日本大震災で母校が被災したこと、高校の先輩で親交のあったサムエル・ワンジル選手が事故死したことが切っ掛けになったと話していたが、改めて絹川はこう振り返る。

「あの時、初めて大人になれたんじゃないですかね。それまでは大人たちに言われた通りにやって、自分の考えも甘かった。でも、そうやって被災地で頑張っている後輩とか、サム先輩の思いを受け継がなきゃって考えたときに、他者の力が入ってくるとね、やっぱりすごい力が出せるんです。逃げずに踏ん張れって思えたんですね」

 絹川はまだまだ伸びる。この頃、誰もがそう信じていた。

<次回へつづく>

2024-06-11T02:08:20Z dg43tfdfdgfd