8回までノーノーでも交代指示、16四球で191球完投…野茂英雄「日本最後のシーズン」とは何だったのか「鈴木監督はそれでも期待を寄せていた」

1995年5月2日、野茂英雄がメジャー初登板を果たしてから29年が経つ。ポスティングシステムもない当時、プロ6年目に突入する野茂が1995年も日本でプレーすることは当然と目されていた。近鉄での最終年、4年連続最多勝の絶対的エースの身に起きていたこととは? 近鉄時代の番記者が「不協和音を告げた開幕戦」と「近鉄での最終登板」を振り返る――。【連載第2回/前回へ】

開幕戦は、野茂と心中や

 1994年4月9日、西武とのシーズン開幕戦(西武球場=当時)のことだ。

 開幕投手を務めた野茂が快投を見せた。8回までノーヒット。0―0で迎えた9回表、4番の石井浩郎が3ランを放ち、試合の均衡を破った。

 ところが、9回の先頭・清原和博に右越えの二塁打を許し、史上初の「開幕戦ノーヒットノーラン」の夢が途絶えると、そこから四球と失策も絡み、1死満塁のピンチを招いた。

 監督の鈴木啓示が、マウンドへ向かう。守護神・赤堀元之への交代を告げた。

「開幕戦は、野茂と心中や」

 開幕前日、鈴木はそう言って、エースに賭ける思いを表現していた“はず”だった。

 記録は途絶えたとはいえ、3点リードだ。4年連続最多勝のエースを、この場面で交代させるなんて、前日の言葉は、一体何なのだ? そう思ったのは、私だけではなかったようだ。

 赤堀は、伊東勤に「逆転満塁サヨナラ弾」を浴びた。

 快勝ムードから、まさかの暗転。それこそ、天国から地獄だった。

根性の指揮官が土壇場で頼ったのはデータだった

 ベンチ裏で、中継ぎエースの佐野重樹(現在は慈紀)が「なんでや」「あれ、なんや」。脈絡のない怒りの言葉を絶叫していた。赤堀が試合後に吐露した“ブルペン待機中の思い”も悲痛な響きがあった。

「きのう、野茂と心中って言ってたやん。だから、最後も『ない』って思って……」

 鈴木が試合後、語った交代の理由は「野茂と伊東の相性が悪かったんや」。前年の1993年、伊東との対戦成績が野茂は18打数7安打、赤堀は7打数無安打。相性の違いは明白だったとはいえ、猛練習と根性が信念の指揮官が、勝利を左右するまさに最後の最後の場面で、エースの心意気にかけるのではなく、データに頼ったのだ。 

191球完投で“お灸を据えた”報道も

 1994年7月1日の西武戦(西武球場)で、野茂は毎回の16四球を出しながら、完投勝利を収めた。ただ、その球数は191球にも及んだ。今なら、それだけ投げさせた監督が間違いなく世間から糾弾されるだろう。しかし、当時はまだ、独自の調整法を貫き続けている野茂に、鈴木がある意味での“お灸を据えた”というニュアンスで報じる向きすらあった。1試合、1人で191球というのは、メジャーではありえないという声にも、ここは日本なんだという反論も、まだ“成立”する時代だった。

 入団から4年間の勤続疲労なのか、それとも191球のせいなのか。中6日となる7月8日の西武戦(ナゴヤドーム=当時)で8回132球を投げた野茂は、続く7月15日のオリックス戦(グリーンスタジアム神戸=当時)に先発するが、2回39球で降板。その後、右肩痛を理由に、7月22日に出場選手登録を抹消された。

大事なときには、野茂の力が必要になるんや

 皮肉なことに、その“エース不在”の7月26日から、チームは球団新の13連勝という快進撃を見せた。開幕ダッシュに失敗し、しばらく最下位を走っていた鈴木近鉄は、8月10日にはいったん、パ・リーグの首位にも躍り出た。

「大事なときには、野茂の力が必要になるんや」

 鈴木は、優勝へ向けての“切り札”として、エース復活に期待を寄せた。しかし、8月24日の西武戦(西武球場)に先発した野茂は、3回1失点、57球でマウンドを降りた。

ノートに記された野茂の「最後の一言」

「ああいう投球だとねえ……。ちょっと出せない。野茂も恥ずかしいだろう。状態がいい、いいで、これだからね。段階をもう一度、踏まないとダメかも……」

 エースのふがいない投球に対する鈴木の苛立ちが、ストレートに伝わってくる。

 私の取材ノートの左ページにある鈴木の談話に続いて、その真横の右ページに野茂のコメントが記されていた。

「時間をかけて(右肩を)じっくり治す。来年も優勝争いをしているかもしれない。メド? 分からない。また(今季中に)上に上がってくるかもしれません」

 その“最後の一行”に、はっと驚かされた。

 野茂は、こんなことを言ってたのか……。今、振り返ってみれば、何とも意味深に映る。

「それまで、サヨナラです」――。

<つづく>

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