FA移籍も数年で「トレード放出」や「戦力外」 権利行使も新天地で“立場を失った”男たち

 FA移籍後、新天地で主力として長く活躍する選手がいる一方、在籍2、3年で引退したり、別のチームに移籍する選手も少なくない。

 現役最後の2年間をFA移籍した新天地でプレーしたのが、田村藤夫だ。

 日本ハム時代の1993年にベストナインとゴールデングラブ賞を獲得するなど、パ・リーグを代表する好捕手として活躍した田村は、95年に戦力外通告を受けたが、翌96年はロッテに移籍し、再び正捕手の座を掴んだ。

 そして、38歳になった同年オフ、初めてFA権を行使してダイエーに移籍した。「彼はパ・リーグひと筋。その豊富な経験を生かしてほしい」という王貞治監督のラブコールに応えた形だが、周囲は当時20歳の若手捕手・城島健司の教育係と解釈した。

 これに対し、田村は「そういう見方をする人が多いけど、僕は現役として来た」と“一捕手”をアピールしたものの、「まあ、年が年だから、絶対に俺がレギュラーになってやろうというほどの気持ちはないけど」(週刊ベースボール97年3月31日号)と、チーム内での役割を十分理解していた。

 城島が一人前になれば、自らの出番はなくなるが、それを承知のうえで、その道の先輩として経験を伝えた。97年3月のオープン戦で西武に走られまくった城島が試合後、号泣していると、「捕手というのは、打たれて覚えていくものなんだ」とアドバイスした。城島も「僕の尊敬する人です」と田村に絶大な信頼を寄せた。

 同年、主に試合終盤のリリーフ捕手を務めた田村は、出場22試合にとどまったが、3年目の城島が初めてフルシーズンにわたって先発マスクをかぶることができたのも、田村の存在あってのものだった。

 翌98年は城島が不動の正捕手になり、チームも21年ぶりのAクラス入り。田村は1軍出場なしで終わったが、「21年間もやれたのは、自分がやってきたことが間違っていなかった」と納得して現役を引退した。

 FA移籍をきっかけに、思わぬ運命の変転を味わったのが、近鉄・金村義明だ。

 86年から長く近鉄のホットコーナーを守りつづけてきた金村は、93年以降、出場機会が減り、首脳陣は若手の中村紀洋への切り替えを図りはじめた。

 自著「在日魂」(講談社)によれば、94年9月頃のある試合で、金村は7回途中で中村に交代した直後、梨田昌孝コーチから「はい、ご苦労さん。もう帰ってええわ」と言われたという。

 その後も同様のケースが何度かあり、「どう考えてもチームが自分を必要としていない」と確信した金村は、翌年中日監督復帰が内定していた星野仙一氏の誘いに応じ、中日へのFA移籍を決めた。

 ところが同年、中日が巨人とシーズン最終戦まで優勝を争ったことから、高木守道監督の続投が決まり、金村は微妙な立場になった。

 さらに翌95年、阪神大震災で家族が被災し、「家族のためにも、もっと頑張らなあかん」と張り切ったことが裏目に出て、左手首、右足、右肩を相次いで痛めてしまう。同年は出場28試合に終わり、年俸も40パーセントダウン。星野監督が復帰した96年もコールズに出番を奪われ、年俸はFA移籍時の半分以下の推定2500万円にまで下がった。

 だが、FA選手にしては安い年俸が幸いし、97年の開幕直後、右打者を欲しがっていた西武とのトレードが成立。移籍後の初打席で本塁打を放ち、復活の狼煙を上げた金村は、出場73試合で打率.306をマークし、リーグVに貢献した。

 残留を望んでいたのに、心ならずもFA移籍することになったのが、阪神・仲田幸司だ。

 92年に14勝1セーブを挙げ、エースとして6年ぶりのAクラス(巨人と同率2位)入りに貢献した左腕も、翌93年以降は思うような成績を挙げられず、チームも4位、4位、6位と低迷した。

 そして、登板9試合、0勝2敗、防御率9.56に終わった95年オフ、FA権を取得した仲田が契約更改の席で「僕がFA宣言したらどうなりますか?」と尋ねると、球団代表は「どこも獲ってくれない」と答えた。「君のFA権なんて紙切れみたいなもんや」とも言われたという。

 仲田は阪神に骨を埋めるつもりだったが、「そこまで言うんやったら、出て行きます」とあとに引けなくなり、涙ながらにFA権を行使。その後、91年秋のキャンプで臨時コーチとして指導を受けたロッテ・広岡達朗GMから「何としても再生したい」と誘われ、移籍が決まった。

 だが、ロッテ1年目は9試合で0勝1敗、防御率6.23と結果を出せず、広岡GMが退団した翌97年も、2軍で苦闘の日々が続く。すでにチーム構想から外れていたが、山本功児2軍監督が「ワンポイントとしてせめて1軍のマウンドに立てるようにしてやりたい。やるだけやってあかんかったら、戻したらいいじゃないか」とサイドへの転向を熱く説得。「そこまで仰るのなら」と本格派へのこだわりを捨て、松沼博久コーチの指導を受けた。

 1カ月後、故障の園川一美に代わって1軍昇格をはたすも、サイドの投げ方になじめず、園川の復帰で再び2軍へ。シーズン後に戦力外通告を受けた。

「このままでは終われない」と阪神の入団テストを受け、一度は合格内定を告げられるが、直後、打者で受験した遠山昭治の投手としての採用が急きょ決まった結果、FAからわずか2年で現役引退となった。(文・久保田龍雄)

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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