「もしかしたら、井上くんが負けてしまうかも」…井上尚弥がもらった「初のダウン」からの挽回の真相

元王者・田口良一が語る井上尚弥の姿

井上尚弥(31)と拳を交えた27名の対戦相手のなかで、唯一倒されなかった男。元WBA/IBFライトフライ級チャンピオン、田口良一(37)。井上はプロ4戦目で、田口の持つ日本ライトフライ級王座に挑戦し、判定で勝利した。2013年8月25日のことだ。

10ラウンドフルにモンスターと打ち合った田口は、試合後、自分の頭を両膝につけるように体を二つに折り、友人が運転する車で会場から自宅に移動する。激しい頭痛に襲われていたのだ。

「あの試合以来、引退まで井上くんよりも強い選手と戦ったことはありません。ラストマッチとなった田中恒成戦は別ですが…。

だからこそ、自分は世界王座にも就けましたし、7度防衛し、2冠王者になれたと思っています。出来過ぎでしたよ」

引退後、先輩王者である内山高志が経営するフィットネスジムの社員となった田口は、スケジュールをやりくりして5月6日の東京ドームに足を運び、かつてのライバルを見詰めた。

「井上尚弥だからこそ、4万3000もの人を東京ドームに集めたんです。自分が会場入りしたのは17時くらいでしたが、1階はほぼ満席でしたね。チケットが欲しくても手に入らなかった人もいるわけです。東京ドームでやると決まった時から、今回の熱狂を予想していました」

20時52分。WBA/WBC/IBF/WBOスーパーバンタム級チャンピオンは、右の拳を何度か顔の前で揺らし、その後両手を高く掲げなら花道を進んだ。幾つもの花火が打ち上げられるなか、宴の主役がリングに上がる。

「井上くんがリングインする様を目にしながら、本当にとんでもない人だ、という感情が湧きました。表情は、特に気負いもなく“いつも通り”だと思えましたね」

初のダウン。それでも「特別な人」だった

しかし、試合開始から1分40秒、井上尚弥は自ら放った左アッパーに左フックを合わせられ、ダウン。パウンド・フォー・パウンドKING、日本人が誰も辿り着けない場所まで登り詰めた男は、プロ生活で初めてキャンバスに横たわった。

田口は語った。

「誰も、井上くんがダウンするなんて思っていなかったので、びっくりでした。正直、ちょっとヤバいんじゃないかと感じました。でも焦らずに、ちょっと遅く、時間を掛けて立ち上がりましたよね。目の焦点も合っていましたし、とても落ち着いていました……」

禁止薬物の使用や、体重超過とダーティーなイメージのあるネリだが、戦い方もまた、予想外の動きをする。言ってしまえば、どこから手が出てくるか分からないタイプである。2017年8月、翌年3月と、山中慎介はそんなネリのボクシングに屈し、引退を決めた。

「山中戦が脳裏を過るということはなかったですが、一瞬、『もしかしたら、井上くんが負けてしまうかな』とも感じました。

『あの井上尚弥でもダウンするんだな』という言葉が自然に漏れました。とはいえ、ダウン後、尾を引いてはいませんでしたね。翌2ラウンドにはダウンを奪い返したので、安心しました。あの人だから、そう出来たんです。

井上くんがダウンしたのって、プロ生活初めてですよね。東京ドームの大舞台で、人生の初ダウンを喫したら、テンパってもおかしくないでしょう。『こんな筈じゃなかった』って感情もあったんじゃないかな。でも、そういう素振りを微塵も見せずに冷静に立て直したので、やっぱり特別な人なんだって感じました」

「想定外」もあったが、勝利は揺るがなかった

翌2ラウンド、井上はネリの左フックを躱して、カウンターの左フックをヒット。ダウンを奪い返す。

「コンパクトでいいフックでした。自分としたら『よっしゃ!』という感じでしたね(笑)。いつもの井上くんだなと。彼がよくやるテクニックですよ。自分も試合で味わっているのかな。いろんなパンチをもらったのでハッキリとは分かりません。

時間が進むにつれて、形勢を逆転し勝利に近付いていくだろうな、と感じました。スピード、技術の差は第3ラウンドから顕著になりましたね。

4ラウンドに見せた『打って来いよ』みたいなネリに対する井上くんの挑発は、頼もしいって気持ちで目にしました。ダウンを喰らって、不安を感じたファンもいたでしょう。そんな局面でああいうパフォーマンスをやると、大丈夫だと伝えられますよね。また、ネリに対しても、『こちらは初回のダウンを引き摺っていないぜ』と、アピール出来たように思います」

第5ラウンド、井上は更に左フックをクリーンヒットしてダウンを追加する。

「仕留めるのは間もなくだ、という感じでしたね。自分は、やっぱり中盤で決まると考えました。周囲の人達も、中盤に井上くんのボディブローでKO勝ちと、予測する人が多かったですね。

そういえば今回、井上くんのボディはネリにあんまり効かなかったのかな……。1回のダウンと合わせて、その点も予測していませんでした」

オフィシャルスコアも、ファーストラウンドはネリがリードしたものの、その後は全て井上がポイントを稼ぎ、3名のジャッジ全員が5回終了時点で48-44としていた。

そして迎えた第6ラウンド、井上はダメージが色濃いネリを青コーナーに追い詰め、ショートの連打で腰からキャンバスに沈める。

「フィニッシュ・シーン、恰好良かったですね。井上くんだから出来る技術の高さです。右アッパーから右ストレート、見事でしたね。ショートストレートでダウンを奪えるところがヒーローになれる所以なんです。

その前の時点でネリは効いていたので、どのパンチでも倒せる状態ではありましたが、やっぱり井上くんは相手を沈められるパンチ力を備えていますね。右ショートストレートが顎を捉えた時、ネリの首が後ろに跳ね上がりましたよね。ああいう形で、ダウンをとれるのが凄いです」

大舞台で見せた井上尚弥の「人間味」

最終的には圧勝で勝者となったが、井上がダウンしたシーンは衝撃的だった。田口は言葉を選びながら続けた。

「人生と一緒で、全てがいつも良いってことはあり得ないじゃないですか。山あり谷ありですよ。ずっと順調に進む人もいなくはないでしょうが、かなり少ない確率ですよね。ファンは希望を込めて完璧を求めるでしょうが、なかなかそうもいかないですし、たまにはダウンするような場面があってもいいんじゃないですか……。

井上くんは試合後、『ダウンもいい経験にして今後に繋げたい』と話したそうですが、ポジティブですね。第1ラウンド、思いのほか動きが固いっていうのは、よくあるパターンですよ。それでも、2ラウンドには、もうダウンを引き摺っていなかった。そこが井上尚弥の真骨頂です。以降の対応も、彼らしかったです。あんな大舞台でダウンして、冷静になれるというのは普通じゃないですよ。

4万人以上の観衆を前に、浮足立ったという彼の言葉には、人間味を感じます。あれだけの大人数が詰めかけたアリーナなら、そう感じるのも無理はないです。モンスターも人間である部分を見せたってことですよ。ダウンしたからって衰えなんて微塵も感じません。今回はちょっと今までと違ったシーンがありましたが、気負いなく練習して更に更に上のレベルに到達してほしいです」

田口は筆者との会話の度に、井上と戦えたことは誇りだ、今は純粋に一ファンとして彼を応援していると語る。井上もまた、ノニト・ドネアとの第一戦を終えるまで、拳を交えた選手で最も強かった相手として田口良一の名を挙げていた。

34年3カ月ぶりの東京ドームにおけるボクシング興行は、ビジネス史に1ページを刻むと共に、新旧のファイターそれぞれの胸に余韻を残した。4冠統一スーパーバンタムチャンピオンは、また次に向かって走り始める。井上尚弥のゴールはまだまだ先だ。

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