「アバラが折れていたんだ…」井上尚弥との死闘で70秒TKOされた元世界王者が初めて明かす悪童・ネリとの一戦の舞台裏

日本ボクシング史上最大のビッグマッチのゴングが鳴る。世紀の一戦の予測を聞くために、井上を取材し続けてきた記者はマイアミへと飛んだ。井上、ネリ双方と拳を交わした元王者の意外な答えとは。【全3回の第2回】

井上はすべて見破っていた?

サウスポースタイルのパヤノと右構えの井上。パヤノは遠い距離から何度かボディへジャブを放った。相手の外側に立ち位置をとるのがボクシングの定石だが、パヤノはあえて内側に深く踏み込んでパンチを打った。

「相手の思い通りにさせたくなかった。定石とは違うが、彼を内側に入れたくなかったんだ」

遠い距離からまたも内側に入り、ボディへのワンツー。すぐにもう一度ボディへジャブを打った。思い通り、足が動いている。

開始30秒、井上は一発もパンチを出さない。ただしきりに前の手を上下に動かし、牽制している。パヤノは井上の表情から感じ取った。

「井上が、ああ、なるほどね、という顔をしたんだ。私の立ち位置や作戦を見破ったのかもしれないね」

互いのグローブが触れ合う、何気なく見える動作。だが、これこそが相手の情報を読み取り、作戦を探り出す高度な攻防だった。

「二人の間には少なからず駆け引きがあった。彼は私のことを頭脳的なボクサーだと分析したのではないかな。互いに前の手で相手の目線を塞いだり、距離を測ったり、フェイントや次のパンチを狙う。私はボディ打ちを狙っていたんだ」

井上は、普通じゃなかった

パヤノは右のフェイントを入れ、左ストレート。だが、井上はそこに左フックを合わせる。二人のパンチは空を切った。剣での斬り合いのような緊迫した展開だ。

それならば、とパヤノは右ジャブ2発を打ちながら前へ。続いて左を打とうとした。井上はそれを察し、バックステップして右アッパー。パヤノは寸前で躱したように見えた。ところが、ここで「モンスター」を体感したのだ。

「彼の右が前腕に少し当たり、その威力が凄まじかった。これはヤバいぞ、と思った。普通、スピードがあったら、パワーはないはずなのに」

警戒していた井上の右。実際に衝撃を味わい、さらに注意を払う。動き続けていた足が止まり、ガードを下げないようにと両腕に意識がいった。

井上が前の手を小刻みに上下させる。それにつられるように、パヤノも右グローブを上げた。

試合開始60秒。そのときが訪れた。井上がこの試合で初めて放った肩の入った左ジャブ。これまた定石とは違い、井上は内側に位置をとり、やや下から上に向かってグンと伸ばし、パヤノの顔面を捉えた。

「非常に素早く的確なパンチだった。左ジャブから、0.001秒くらいで次のパンチが襲ってきたんだ」

のちに井上が「スローモーションに感じた」と語るほど集中力が研ぎ澄まされていたシーン。0コンマ1秒ではない。パヤノの体感では左をもらって0.001秒後、井上の右ストレートをあごに食らった。

「あのパンチは一切見えなかった。凄まじく硬いモノが当たり、一瞬、雲に包まれたように感じた。そして、意識を奪われたんだ」

体がくの字に折れ曲がり、失神したパヤノは全身から力が抜け、そのまま後頭部をキャンバスに打ちつけた。

井上戦決定から2ヵ月半、一日たりとも手を抜かず、練習に明け暮れた。マイアミから勝利を得るために20時間かけてやってきた。それがわずか70秒でKO負け。悔しい。やるせない。涙があふれてきた。

セコンドに就いたトレーナーのヘルマン・カイセードが肩を落とすパヤノに声をかける。

「最後のパンチは見えなかったんだからしようがない。防ぎようがないよ。井上は今はまだレジェンドではないかもしれない。だけど、おまえはこれからレジェンドになる男に負けたんだ。そんなに気を悪くするな」

そして、パヤノに諭すように言った。

「少なくとも、おまえはこの試合に向けて、やるべきことをすべてやった。きちんとやり遂げたんだから」

どうして俺があいつに…

試合までの過程で後悔はない。やり切った。リング上でも試合開始60秒、その直前まで、できることはすべて遂行していたのだ。

トレーナーの声を聞き、パヤノは頷いた。頭では理解できる。やり残したこともない。とはいえ、すぐに消化できるような敗戦ではない。やがて行き着いた結論はこうだった。

「ある意味、満足だった。それは自分を下した男が最高の男だったからだ。井上は私に勝つべくして勝った。実際、右でKOされたが、あの左ジャブをもらった時点で終わっていたんだろうな……。すべての点で、私が過去対戦した選手の中で一番難しい相手だった」

約500戦のキャリアで最も短い70秒の試合。だが、前の手での駆け引きや、裏をかく位置取りは濃密で高度。達人同士の闘いだった。井上の拳から知的で気高く、上質な精神が伝わってきた。

井上戦から5ヵ月後、パヤノは再起戦に勝ち、'19年7月20日、米ラスベガスでネリとの対戦が決まった。試合前日、ネリはまたも計量で0.5ポンド(約230グラム)オーバーする失態。1時間後の再計量でようやくパスした。

試合はパヤノが先に仕掛け、積極的に手数を出した。ネリがパンチを放てば、パヤノはジャブの速射やコンビネーションで巻き返す。中盤までボディワークでネリの強打を躱していた。

「実はあのとき、試合前からあばらが折れていたんだ。途中までは何とか闘えていたんだが……」

ネリの力の入った左右のフック、アッパーは大振りの割にバランスがいい。パヤノはダメージが蓄積してきた。9回。コーナーに詰められたパヤノは左をあばらに食らい、跪いた。無念のKO負けだった。

「もちろんネリに負けたのは事実だ。でも、彼は手負いの私に勝ったにすぎないんだ」

ネリ戦を振り返るパヤノはどこか不満げで、やるせないような顔つきだった。饒舌だった井上戦と違い、ネリについては多くを語らない。会話に間ができる。表情や雰囲気から「どうして俺がアイツに負けたんだ。ケガさえなければ……」という悔恨が伝わってきた。

(取材/文 東京新聞運動部・森合正範 ~後編へ続く)

2024-05-01T21:07:27Z dg43tfdfdgfd