「メジャーなんてありえない」が日本の常識でも…野茂英雄26歳は「メジャー挑戦の夢」を語り続けた 近鉄番記者が聞いた「野茂のホンネ」

1995年5月2日、野茂英雄がメジャー初登板を果たしてから29年が経つ。ポスティングシステムもない当時、プロ6年目に突入するトルネードが1995年も日本でプレーすることは当然と目されていた。一体、近鉄最終年に何が起きていたのか。近鉄時代の番記者が「暗雲を告げた1994年の秋」を振り返る――。【連載第3回/初回から読む】

“再衝突”は不可避に見えた鈴木近鉄の「95年体制」

 1994年の近鉄は、一時は借金15、首位から16ゲームも引き離されながら、夏場には首位にも立つという驚異的な巻き返しを見せた。

 最終的に、2年ぶりのAクラス奪回となる「2位」に滑り込むと、鈴木啓示の監督就任3年目となる1995年の続投も正式に決まった。

 「石の上にも三年や」

 その鈴木がV奪回へ向け、投手コーチとして招聘したのは米田哲也だった。

 阪急のエースだった米田は「ガソリンタンク」の異名を持ち、現役実働22年間で歴代2位となる949試合登板、鈴木を上回る通算350勝を挙げた鉄腕だった。

「米田さんはピッチャーの大先輩で、言わなくても、感覚は同じや。何でも『込み』を入れようということや。投げ込み、走り込み。勝つために、長くやるために、最低でもこうやるべき、という心構えもある。勝ってきた人は、こういうことをしてきたから勝ってきたんや。選手のためにはええことや」

 鈴木はまさしく、自らのイズムを貫き通すべく、10歳年上の大先輩を自らの右腕として招聘したのだ。もう、この人事を見ただけで、野茂との“再衝突”は目に見えている。

野茂が出席した上智大のシンポジウム

 野茂も鈴木も、表面上は決して、互いを批判するようなことは言わない。しかし、2人のポリシーは、未来永劫、絶対に交錯しないだろう。それは、当時プロ野球記者1年目だった私にだって分かる。

 指揮官とエースは、この先、一体どう折り合いをつけていくのだろうか。

 野茂の本音を、聞き出すことはできないだろうか。そう思いあぐねていた頃、野茂が“講演会”に出席するという情報が飛び込んできた。

 1994年11月1日、東京・上智大で「スポーツシンポジウム」が開催され、そのパネラーの一人として野茂が出席するというのだ。

 私も、会場へ足を運ぶことにした。

どんなことがあっても、フォームは変えない

 トルネード投法は、背中の「11」が打者に見えるほど、体を大きく捻る。

「打者から一回、目は切るんです」

 テクニカルな投球のコツを明かしたかと思うと、異端ともいえる独特なフォームを築き上げた社会人の新日鉄堺時代に「男としてやる以上、間違ってもいいから、通せることを1つ思え」と先輩からアドバイスされたと明かし「どんなことがあっても、フォームは変えないと思いました」。

 普段は口数の少ない、番記者泣かせの男が、いつになく饒舌に語り、秘めていたエピソードを次々と披露していく。

野茂が“共鳴”していたMLBのストライキ

 そして野茂は、自らの胸に秘めていた野望を、堂々とその場で“公言”した。

「大リーグ、すごく興味あります。来年からでも行きたいくらいのつもりで、夢を持っています。プロ野球人は、統一契約書1枚に縛られる。知らずにハンコを押して、それに縛られている。アメリカは、それを変えてきて、ストライキまでやっている。自分を大事にすることに関しては、日本人より強いですね」

 今なら、即座に「メジャー志望」の見出しが躍るだろう。しかし、当時は「メジャーに行く」ということが、夢のまた夢、そんなことできるわけがないという固定観念にプロ野球界全体が縛られ、スポーツマスコミもその図式でしか物事を捉えられなかった時代だった。

「メジャーなんて、ありえない」という前提

 フリーエージェント制度は、1993年オフに導入されていたとはいえ、当時の野茂の場合だと、その権利を得るまで「一軍登録9年」が必要だった。当時は公傷制度(現在は「故障者特例制度」)もなければ、先発ローテーションの関係で、登録を抹消されての調整期間を取ったとしても、その抹消されている間は一軍登録にカウントされない。出場選手登録の145日を1年と換算しての9年とはいっても、故障でもすれば、それこそ10年以上はかかる。そこから“自由”を掴めても、メジャーどころか、日本の他球団に移籍しようと思ったところで、その全盛期は過ぎてしまっているだろう。

 メジャーなんて、ありえない。私にも、その“前提”が抜けなかった。

いろいろと“ルール”がありますからね

「メジャー、行きたいんやね?」

 シンポジウムを終え、帰路につく野茂を、タクシーに乗り込む前に捕まえた。

「チャンスがあれば、大リーグでやってみたいんですよ。いつも言ってることですよ。でも、いろいろと“ルール”がありますからね」

 ここに、ピンとこなかった自分の“甘さ”を、30年の月日がたった今も悔やんでいる。

複数年契約の要求

 夢を叶えるために、野茂は本気で動き出していた。

 12月13日に設定された第1回契約更改の席上で、野茂は「複数年契約」を球団側に要求。その交渉は、およそ3時間というロングラン。「複数年契約の話を拒否されて、この時間になってしまいました」と野茂が、その交渉経緯の大まかな内容を説明している。

 球団社長の前田泰男は、野茂が主張したという「複数年契約」に関して「そんなもんは協約にない。野茂君にやる理由がない」と、要求を完全拒否したことも明かしている。

 統一契約書では、選手と球団の契約は「単年」が基本。ただ、選手と球団の双方で複数年の合意をすることは当然ながらあり得る。その場合も、統一契約書上は「単年」のため、契約更改交渉の席が毎年設けられ、単年の契約書にサインをし、記者会見もセットされるという、一連のセレモニーのようなことが行われているのはそのせいでもある。

野茂はウチが保有権を持ってる

 前田は、野茂とのシビアなやりとりの一部も明かしている。

「(故障で)成績が悪くなったら、すぐ辞めさせるのか、って言うから、それは違うと。簡単にいったら、複数年契約をして、身分を確保したいということなんや。そやけど、実績があるやないかと。そんなもん、即(自由契約に)してない」

「複数年にして、何の価値があるんや? 意外は意外やったな。来年クビなんて、常識的に考えたら分かるやろ。アメリカの複数年でも、FAであっちこっち行かれんようにやっとるだけ。野茂はウチが保有権を持ってる。この席上でずっとやる話やない。本人がどう解釈してやっとるのか分からんわ。次回は来年の契約でやろうと言った」

 前田の言葉からは、球団として「複数年契約」は一切認めないという、その断固たる方針が貫かれているのが、非常によく読み取れる。

もっと(野球協約を)読んでこないと…

 しかし、あれから30年が過ぎた「今」だからこそそう感じるのかもしれないが、取材メモを改めて読み直してみると、この1回目の交渉が、野茂にとって次なる“本気の要求”へ向けての、いわばジャブのような感じすらしてくるのだ。

 野茂の言葉の端々に「野球協約」や「統一契約書」に関して、球団側の見解や認識を問いただしていた、その“形跡”が見て取れるからだ。

「自分の権利は、球団に100%あると言われました。その辺から考えてみて、複数年契約を認めてもらえれば、という考えになりました」

「(複数年契約は野球)協約上、ダメだと言われた。(球団)社長も絶対に認めないと」

「保有権というものがある。社長がノーと言えばノー。勉強不足でしたね。もっと(野球協約を)読んでこないと……」

僕の答えとしては、ノーコメント

 第2回交渉はその8日後、12月21日に設定された。

 その席上、野茂はいよいよ、自らの抱く夢への“本気度” を示す行動に打って出た。

「折り合いはつきませんでした。それ以外、言いようがない」

 交渉後、野茂は金額提示に至らなかったことを明かし、具体的な要求に関しても「僕の答えとしては、ノーコメントです」と第1回の交渉後とは打って変わって、今回は一切、その交渉経過の詳細を明かさなかったのだ。

何かが、おかしい

 球団社長の前田泰男も「要は、合わなんだ、ということや。それだけや。向こうは、どう言うてた? 金額? 俺に聞いても知らんで。具体的なことまでは発表する必要ない。それで、よろしいやんか」と関西弁の切れ味が、いつになく悪かった。私の取材メモにも、何度となく「…」が記してあった。前回の交渉後での饒舌な説明とは一転、言葉に詰まり、言いよどんでいたのだ。

 何かが、おかしい。

<つづく>

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