事実上の”出禁”だった過去も…日本協会・宮本恒靖新会長が<日本酒を嗜んだ>中田英寿氏入閣の現実味

サッカーU23日本代表が8大会連続の五輪出場を決めた。予選B組で韓国に敗れ、2位通過となった日本代表は決勝トーナメント準決勝にいくまでに1敗でもすれば出場が途絶えるピンチだったが、戦後最年少47歳で日本サッカー協会(JFA)のトップになった宮本恒靖会長は3日(日本時間4日)の決勝まで現地に視察には行かずに国内で戦況を見守った。

宮本会長の体制は4月にスタート。’02、’06年ワールドカップ(以下、W杯)に2度、日本代表主将として出場した“ツネ様の手腕“に大いに期待が集まる。だが、宮本新体制を支えるJFA理事の人選で「参謀役」の不在を指摘されてきたが、その有力候補に宮本会長の「戦友」、中田英寿氏が浮上しているという。

宮本会長は4月末に宮本会長が自身の公式インスタグラムを更新し、中田氏や元日本代表の石川直宏氏、シンガーソングライターのナオト・インティラミらと会食した後と思われる様子をアップしている。

日本サッカー界の功労者の1人として数えられる中田氏だが、実は長くJFAには事実上の“出入り禁止“が続いていた。ただ、戦友でもある宮本会長誕生で、風向きが変わり、事実上の”出禁”を解除するきっかけになり得るのだ。ベテランのサッカーライターはこう明かす。

「中田氏がJFAで何らかの役職を得て活動することは、決して妄想ではなく、現実的な話です。もちろん、今ある役職に就くことはあまり考えられませんが、前任者の田嶋幸三前会長が前例を作りました。宮本氏は’21年にガンバ大阪の監督を解任されたばかりでしたが、田嶋会長は宮本氏のことをかねてから『将来、JFAを担ってほしい』と思っていた人材でした。そのため、’22年にJFAに迎え入れるにあたって『会長補佐』という、これまでなかった新ポストを作ったんです。会長はそれができる権限を持っているんです」

JFAは現在270名を超える職員を抱え、’23年度には年間300億円近い収入がある日本一ビックなスポーツ協会のトップに宮本会長が就任した。これから日本サッカー界で何をしたいのか、そしてどうしたいのか。そのメッセージがわかる人事に注目が集まっていた。しかし、サッカー担当記者はこう明かす。

「手始めがどんな理事を宮本会長が集めるのか、注目していましたが、新鮮味はゼロでした」

NO.2の副会長はJ3今治の岡田武史オーナー、Jリーグ野々村芳和チェアマンらが続投。これまで最大30人いた理事は15人に半減し、元なでしこジャパンの川澄奈穂美が現役女子サッカー選手として抜擢されたが、その力量は全くの未知数だ。15人による理事編成を見ると、川澄理事を除けば47歳の宮本会長が一番の年下になってしまう。別のベテラン記者はこう明かす。

「これまでのJFA会長には理事の中に必ずいたのですが、宮本体制では”右腕になる”人物、いわゆる“参謀”が見当たりません。この理事のメンバーを見れば田嶋前会長と岡田さん(武史副会長)が宮本新会長の仕事ぶりをチェックするような役目になる。宮本新体制は事実上、この2人による院政ですよ」

そこに宮本会長の「参謀役として適任なのでは」と浮上するのがヒデなのだ。

宮本新会長と中田氏は共に47歳で中学3年生の時に初めて出会っている。全ての代表カテゴリーで同じチームで戦った戦友でもある。2人の絆を象徴する出来事が’06年ドイツW杯に出場したジーコジャパンの時に起きた。

「現役時代にブラジル代表で黄金時代を築いたジーコ監督は欧州クラブで主力としてプレーしていた中田氏をチーム主将にする構想を持っていました。当時、代表フル参戦が厳しかった中田氏が、宮本会長に意思を確認して代表主将を譲った、という経緯があるんです。ジーコ監督も『中田氏がそこまで言うのなら』と宮本主将の誕生を了承しました」(古参の代表担当記者)

’06年のジーコジャパンでは、MF小野伸二、MF中村俊輔、高原直泰と海外クラブでも活躍する個性的な選手が揃い、当時、史上最強の日本代表と期待された。すでに欧州でも認められる存在になっていたヒデは、他の選手への要求水準が高くなったこともあって、他の選手とコミュケーションを取るのに苦労していた。そのヒデを陰でフォローしていたのはツネ様だったのだ。

ただ、中田氏は長くJFAへの事実上の出入り禁止が続いていた。‘08年にヒデが立ち上げた一般社団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」が行ったチャリティーマッチが原因だった。

「JFAは、ヒデ(中田氏)が企画したというこの試合について、わざわざ国際サッカー連盟(FIFA)にまで掛け合って支援を要請しました。ところがこれが純粋なチャリティーマッチではなかったことが後で発覚した。一部で利益をあげていたことにJFA側が大激怒。この出来事以来、ヒデ(中田氏)はJFAの敷居を跨げませんでした」(前出の記者)

さらにその6年後の‘14年W杯ブラジル大会に出場を決めたイタリア人のザッケローニ監督のアルゼンチンとの親善試合(1―0  ’10年10月8日)で中田氏によるザッケローニ監督へのインタビューがあった。

「この試合を放送したテレビ局がJFAハウスでこのインタビューを撮りたいと希望したが、JFA幹部が“ハウスでヒデの取材は絶対させない“と拒否をしました」(同)

それほど、JFAと中田氏サイドのミゾはかなり深かったが、中田氏に対する事実上の”出禁”を主張したJFA幹部はすでに勇退している。さらに今回の宮本新体制で専務理事に就任した湯川和之氏の存在が大きいという。

‘06年W杯ドイツ大会1次リーグ最終戦、ブラジルに1−4と惨敗して中田氏は現役を引退した。試合終了と同時に大の字になって泣き崩れた中田氏にチームメートはほとんど寄り添わなかった。

「ヒデ(中田氏)が引退するなんてジーコ監督も選手も誰も聞かされていなかった。だから『なぜ、いつまでも寝転んでいるのだ?という空気だった」(現場で取材した記者)

このとき、ヒデをたった1人で肩を叩き、抱き抱えたのが当時、チームマネジャーだった湯川氏だった。

「今回の宮本体制で湯川氏はJFAの NO.3にあたる専務理事に昇進しました。湯川氏は『これからFIFAにもしっかり主張していくには、代表歴のある選手たちがどんどんJFAの幹部になっていくセカンドキャリアがあるべきだ』と話していました。ヒデ(中田氏)との関係も良好ですから、宮本会長さえ決断すればヒデ(中田氏)がJFAで現場復帰できる環境は完璧に整っています」(同)

宮本新会長も中田氏とは2人で食事にいく関係を今も続けている。宮本会長は就任のマニュフェスト(公約)の最重要項目に「日本代表を強くする」ことを挙げているものの、一方でクラウドファウンディングを始めなければいけないほどの財政難や、パリ五輪出場権を決めてもなかなか盛り上がらない、女子サッカーの人気回復の問題や数多くの課題もある。

宮本会長は「自分1人ではできないこともあるのでたくさんの人を巻き込みながらサッカーの発展に貢献したい」と宣言した。その1人が「中田英寿」なら誰もが納得して、宮本新会長の支持率上昇につながるだろう。

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