井上尚弥“東京ドームが凍りついた初ダウン”そのとき何が起きていたのか? 本人も認めた「気負い、重圧」…ネリが崩れ落ちた劇的KOまでの内幕

 日本が世界に誇るスーパーバンタム級4団体統一王者、井上尚弥(大橋)が5月6日、東京ドームで防衛戦を行い、元2階級制覇王者の挑戦者、ルイス・ネリ(メキシコ)に6回1分22秒TKO勝ち、4本のベルトを守った。最高のヒール役、ネリとの攻防は、井上が初回にダウンを喫する“サプライズ”で幕を開け、最後は豪快にネリを沈めるというこれ以上ない幕切れ。至高の一戦を振り返る――。

信じがたい光景に凍りついた東京ドーム

 東京ドームでボクシングのイベントが開催されるのは、1990年2月にマイク・タイソンとジェームス・ダグラスが拳を交えた世界ヘビー級タイトルマッチ以来のこと。34年前は絶対王者のタイソンが伏兵のダグラスに敗れるという“世紀の番狂わせ”が起きたが、今回もまさかのサプライズが待っていた。

 初回、アップライトに構えた井上は右フックを強振、いつになく力みが感じられた。サウスポーのネリは鋭いジャブから踏み込んで左フックを思い切り振ってくる。ネリは荒っぽい攻撃が売りだ。戦前、「死を覚悟して戦う」と決意を述べていたネリがその言葉通り、「井上を相手にして臆さない」という最初のハードルをクリアしたように思えた。

 しかし、「ネリはビビってないな」などという“上から目線”は、パンテラ(ヒョウ)の異名を持つメキシカンの強打によって打ち砕かれる。両者の距離が近づき、井上が空間を作って左アッパーを突き上げ、右につなげようとした瞬間だった。ネリの左フックが顔面をとらえると、井上がキャンバスに落下。モンスターが倒れていくという信じがたい光景に、東京ドームを埋め尽くした4万3000人の動きがピタリと止まる。大橋秀行会長の「寿命が縮まった」というコメントは紛れもない本心だろう。

窮地で見せつけた“ディフェンスの基本技術”

 驚いたように目を見開いた井上の表情がモニターにアップで映し出される。試合後の記者会見で、本人は次のように振り返った。

「ダメージはさほどなかった。パンチの軌道が読めなかった。1ラウンド目ということもあってダウンはしたけど、引きずることはなく、2ラウンド目からポイントを計算していこうかと。そこは冷静に戦えた」

 人生初のダウンという緊急事態にありながら、井上は片膝をキャンバスにつき、コーナーに「大丈夫だ」とアイコンタクトし、カウント8まで聞いてからゆっくり立ち上がった。再開後、ネリのアタックをしっかり見てすぐにクリンチしたのはお見事。ここからはダッキング、ブロッキング、バックステップとディフェンスの基本技術を使いこなし、ピンチを脱したのである。

まさかのダウンの要因は?「出だしは気負っていた」

 井上のダウン――その原因を考えてみると、本人が指摘したように、ネリ独特のパンチの軌道がまだ読めていなかったことが一つ挙げられる。ただ、普段の井上ならそうした事態も想定し、リスクを回避しながら初回を組み立て、相手の情報を収集するはずだ。今回は「出だしは気負っていた部分があった」と本人が認めるように、井上ですら制御が難しくなるほど気持ちが高まっていたことがより大きな原因ではないだろうか。

「自分にとって東京ドームでやることは、パワーをもらってましたけど、振り返るとプレッシャー、重圧があったと思う。入場したとき、舞い上がってはないですけど、ちょっと浮き足立つというか、そういう感じだったのかなと。振り返ればそういうシーンはありました」

 ボクシングで34年ぶりとなる東京ドーム興行は莫大なお金が動くビッグイベントだ。しかも対戦相手に抜擢されたネリは、6年前の山中慎介戦で計量失格の失態を犯しながら悪びれる様子もなく、日本のファンから大ひんしゅくをかった最高の敵役。常にKO勝利でなければ許されない井上にして、「いつも以上に倒さなくてはいけない試合」と思わせるのだから、そのプレッシャーは想像を絶する強度だったに違いない。

クールダウンした井上尚弥の“圧巻のボクシング”

 それでも井上は重圧に押しつぶされなかった。それはハートの強さであり、志の高さであり、責任感の強さであろう。そして何より、圧倒的な実力に裏打ちされた自信こそが井上の体を突き動かした。

 ヒートアップする会場のムードとは対照的に、井上の熱くなった脳は徐々に冷めていく。2回、右ガードをしっかりアゴにつけ、鋭いジャブ、ボディへの右ストレートを軸に試合を作り直した。上下の打ち分け、堅実なディフェンス、的確なポジション取り。スキのない本来のボクシングがよみがえってくる。ネリが踏み込んで左フックを振り下ろしてくると、これをバックステップで外し、すかさず左フックを合わせる。ネリがキャンバスに崩れ落ちると東京ドームは割れんばかりの大歓声だ。

 これで「チャラにできた。気持ち的にリセットできた」と感じた井上はここからさらに自らのボクシングを徹底していった。ダウンの直後、無理に攻めなかったように、3回もジャブ、右ボディ打ちと、丁寧なボクシングでゲームメイクした。井上が手を出さない局面でも圧力をかけ続けるため、攻めてリズムを作りたいネリはエンジンをふかすことができない。

グシャリと音が聞こえるかのような劇的KO

 3、4回、井上の顔面への右ストレートがいよいよ当たり始めてきた。さらにチャンピオンはガードを下げたり、グローブで「アゴを打ってこい」と挑発したり、すっかり余裕が出てきた振る舞いだ。

 劣勢のチャレンジャーは5回、ガードを固めて頭を下げ、前に出てきた。中間距離ではどうにもならないと悟り、強引なアタックを仕掛けてきたのだ。ところがそれで事態が打開できるほどモンスターは甘くない。引きつけてロープを背負った井上がネリのパンチを外して左フックをコンパクトに振り抜くと、パンテラが再び崩れ落ちた。

 6回、井上が強烈な右ボディストレート、そして左フック、右ストレートを打ち込むと、ネリの体が揺れた。「長い間、井上との対戦を待ち望んでいた」という元2階級制覇王者もプライドを見せ、最後の力を振り絞って左フックを打ち込むが、もはや逆転する力は残っていない。井上はネリをロープに追い詰め、右アッパー、そして右ストレートを叩き込むと、グシャリと音が聞こえるかのようにネリがダウン。マウスピースを吐き出すと、レフェリーが試合を止めた。

 まるで東京ドーム興行のために特別に用意されたドラマのようだった。「モンスター、まさかの初ダウン」というサプライズで始まり、ピンチを切り抜けるとすぐさま反撃のダウンを奪い、途中からは実力差を見せつけて、最後は劇的なフィニッシュ。勝利者インタビューで「みなさん、1ラウンド目のサプライズ、たまにはいかかでしょうか!」と問いかけた井上は紛れもない千両役者だった。

 東京ドーム興行を成功させ、井上はスーパースターとしてまた一つ階段を登った。モンスターはこの先も、まだ、だれも見たことのない景色を見ることになるのだろう。次戦は9月ごろ、IBFとWBOで1位にランクされるサム・グッドマン(オーストラリア)と対戦予定であることが試合後に明かされている。

2024-05-07T08:14:44Z dg43tfdfdgfd