「僕は忙しいんです。だから…」魁皇からのプロポーズ…元女子プロレスラー・西脇充子(56歳)が卵巣がんを乗り越え“大関の妻”になるまで―2024上半期読まれた記事

2023ー24年の期間内(対象:2023年12月~2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。プロレス部門の第2位は、こちら!(初公開日 2024年4月7日/肩書などはすべて当時)。

22歳の若さで引退した元女子プロレスラーの西脇充子。元大関・魁皇の妻となり、浅香山部屋を女将として支えるまでには、卵巣がんによる闘病生活を乗り越えた過去があった。夫との出会いや、過酷だった闘病について聞いた《NumberWebインタビュー全3回の2回目》  29歳で卵巣がんに罹患した。抗がん剤治療で髪がごっそり抜けたとき、わんわん泣いた。地獄を見た。ところが、それがきっかけで運命の歯車が動きはじめた。

 西脇充子が古賀充子になったのは、偶然ではなく必然だったようだ。

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西脇 最初はね、うつ伏せで寝てて、おなかがころころして。トイレもめっちゃ近かったから、膀胱炎になったかななんて思って病院に行ったら、内科の先生から「すぐに婦人科に行ってください」って言われて、回された。婦人科の先生からは、「すぐに入院して。これね、がんだよ」って言われて、えっ……て。帰りのタクシーで何を考えたかっていったら、給料を前借りしなきゃ、マンションのゴミを捨てとかなきゃ。

――がん治療のためのお金が必要だ、と。

西脇 そう。で、働いてた店のオーナーに事情を話したら、「まず親に電話すれば?」って言われて、あっ、そっかーって。すっかり忘れてた(笑)。そしたらお母さん、その日の夜に(地元の岐阜県から)出てきたんだけど、泡を食ったんだろうね、かばんに本を13冊も詰めてきた。長い入院生活になるだろうから、本がいると思ったんじゃない? 入院して、3日後に手術。卵巣がんだけど、良性とも悪性とも何ともいえないってことで、腫瘍を1.5キロも取ったんですよ。

「いちばん泣けたのはね、髪の毛が抜けたとき」

――けっこうな重量じゃないですか!

西脇 私は見てないけど、オーナーがそれを確認して、「あんた、すごかったよ。明太子のでっかいやつみたいで」って。そりゃ重いよね、そんなでっかいのが詰まってたら。きわめて悪性に近いからって、そこから抗がん剤治療を6カ月。1カ月に1回、6クールの闘病生活に入りました。いちばん泣けたのはね、髪の毛が抜けたとき。

――何度目の抗がん剤治療のときですか。

西脇 2回目だから、2カ月後。抜けてきた時期だったので、ウィッグを買いにいくための外出許可をもらって。髪をうしろで結って、ニット帽をかぶって、(外出先から)「病院に戻る前に抜けた髪をベランダで払っとくね」なんて言いながら、オーナーに「ちょっとここ上げて」ってグッて持ち上げてもらったの。私もグッて動いたら、つかまれていた髪がごっそり抜けた。ニット帽で抜けた髪をくるんで、病院に帰った。それを看護師さんに言ったら、「西脇さん、もう洗っちゃいましょう」と。

わんわん泣いた。「私、死んじゃうの?」って

――自分の姿を鏡で見たとき、どう思いましたか。

西脇 初めて見たときに、わんわん泣いた。びっくりと、大変な状態だったんだなっていうのと、「私、死んじゃうの?」っていう重さを初めて感じた。手術を受けたのは自分なんだけど、“明太子”を見てないから、現実味がなかったんだけど、自分の姿を見たときにようやく「はっ……」と。でもね、下からもう新しい毛が、ほんと何ミリかなんだけど、生えてきてるの。それはね、生命の強さを感じた。

――ほんとですね。治療は、6クール受けきったんですか。

西脇 そう。丸々。何度か退院はしたけど、6カ月間は入院しました。右側の卵巣は全部取ったけど、左はちょこっと残してくれたんです。先生が、「まだ若いから」って残してくれたんで、子どもを産めない体になったわけではない。妊娠できる確率は低くなったけど。

――大病を克服したことで、生への価値観は変わりましたか。

西脇 こうなったらゴキブリのように這ってでも生きてやるって、そういう気持ちはずっと持ってます。病院にいると、暇なのね。だから、お見舞いに来てくれた人の回数を、「正」の字で書いてた(笑)。それがプロレス時代の先輩にも、「西脇がお見舞いの回数を数えてるから、行かないとやばいよ」って噂が流れたらしく(笑)、みんな来てくれた。先輩のともさん(ライオネス飛鳥)に大森ゆかりさん。北斗(晶)に堀田(祐美子)。後輩だと、井上貴子とか下田美馬、アジャ(コング)。噂を聞きつけたのかなぁ。

魁皇関と出会った日

――無言の圧でしょうね(笑)。結果的に、その卵巣がんが5歳年下の魁皇関と出会うきっかけになったんですよね。

西脇 そう、そう。女子プロのことも書いてたライターさんが、相撲雑誌に移ったんです。退院したあと、「お相撲さんに会うと元気になるから」って食事会を開いてくれた。私はまだ短髪だったので、知り合いの美容師が「格好よくしてあげるよ」って金髪にしてくれて。その会には武双山関が来る予定だったんだけど、ドタキャンになって、急きょ電話で呼ばれて来たのが魁皇関だった。

――知ってましたか?

西脇 知らない。「誰?」って。彼は、前の歯がすいてるのね。あら、かわいらしい顔してるわっていうのと、でっかい人が来たなっていうのが第一印象。私は、そのころよく遊んでたアジャを連れていって、むこうは野球や競艇の選手なんかもいた。私はずっと「かいようさん」って呼んでたら、「すいません。かいおうです」って(笑)。

――連絡先を交換して、そこからどのようにして、恋愛に発展していったんですか。

西脇 まず、「昨日はありがとうございました」ってお礼の連絡がありました。しばらくしてから、「武蔵丸関とか大勢で飲み会してます。来ませんか?」って誘われて。何回も何人かでごはん食べたりしてるうちに、お相撲さんって忙しいから、巡業に入っちゃったんです。急に会えなくなっちゃった。あれって、魔法にかかるんですよね。「あらっ、寂しくない?」みたいな(笑)。

「僕は忙しいんです。だから…」プロポーズの意外な言葉

――一緒にいるときは、気づかなかった。

西脇 心にぽっかり穴が空いたときに電話がかかってきて、「寂しいですね」「会いたいですね」「東京に帰ったら会いましょう」っていう流れで……。

――プロポーズの言葉は何だったんですか。

西脇 「僕は忙しいんです。場所があって、巡業があって。だから、すべてを僕に合わせてほしい。それをしてくれたら、僕は絶対に裏切りません。離しません」みたいな、そういうこと。そういう人は初めて会ったので、この人は信用できるなって。私が合わせてあげないといけないって思ったので、麻布十番から錦糸町に引っ越して、業平にあった部屋まで自転車で行ける距離に移った。ただ、そのときはお付き合いしてる人ではあるけど、結婚とかはぜんぜん考えてなかった。

――それが、どう変化していったんですか。

西脇 初めて会ったのが、97年の9月4日。その丸1年後の98年の9月4日に、新聞に載っちゃった。ドーンと一面に、「魁皇、女子プロレスラーと交際」って。

――だから、年月日までを忠実に覚えているんですね。

親方への報告「おまえ、結婚すんのか?」「はい」

西脇 そう。もうびっくりして! 前日に記者から、「明日の新聞に載りますよ」って言われたらしく、あわてて電話がかかってきた。あわててた理由は、(先代友綱)親方が知らないからで、「記事が出る前に親方にあいさつに行かないといけないから、すぐに来てくれ」って言われて、初めて親方の前に連れていかれるのに、バタバタで。「明日こういう記事が出ます」って魁皇関が言って、「おまえ、結婚すんのか?」って聞かれたら、「はい」って答えるもんだから、「えーっ、聞いてないよ。私って結婚すんの?」って(笑)。あのとき、彼は震えてたの。親方に女性を紹介するのは初めてだったみたいで、「はい」って答えるしかなかったと思う。そこから結婚に向けて、ダダダーッて話が進んでいった。

――結婚は行事だ。

西脇 ホテルニューオータニの結婚式に出席したのは、560人ですよ。でも、思う。先代の親方は、よく結婚に反対しなかったなぁって。親方は、「こいつは守る者があったほうがいい。そのほうが強くなる」と踏んだみたいだけど、今思えば、あれがなければ私たちはどうなってたかわかんない。導かれるようにそうなっていったし、97年に出会って、98年に記事が出て、99年に結婚して。どんだけのスピードだよって(笑)。そっからは、相撲地獄にはまっていった。言い方は悪いけど。

《インタビュー第3回につづく》

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