「必ず若い番号に戻してやる」落合博満が忘れなかった“悲運のエース”との約束…消えた天才と呼ばれた中里篤史は今〈中日ドラ1右腕の悲劇〉

2000年ドラフト会議で、中日ドラゴンズから1位指名を受けた右腕・中里篤史。しかし、星野仙一や落合博満ら歴代の指揮官から高く評価された才能は、プロ野球の世界で最後まで輝きを放つことはなかった。“悲運のエース”と呼ばれた天才ピッチャーは今…。【NumberWebインタビュー全2回の後編/前編から読む】

 復活に向けてリハビリに励んでいた2003年秋季キャンプのランニング中。中里のもとに落合が歩いてきて、こんな言葉をかけたという。

「今のお前はこの背番号じゃない、と。番号は大きくなるけど、怪我が治ったら好きな背番号をつけさせてやるから。必ず若い番号に戻してやる、と」

 中里は2004年から70番を背負うことが決まっていた。入団時からつけた「28番」に愛着があっただけに、小さくないショックも受けた。

 落合の言葉は、今にして思えば過度なプレッシャーをかけたくないという配慮もあったのだろう、と想像がつく。だが、その言葉の真意を知るのは、2005年10月の復帰登板の2日後、監督室に呼び出された時だった。

「落合監督は投手陣のことは森繁和さんに任せていて、そんなに話す機会はないと僕達も感じていて。だから、背番号の件も口約束くらいにしか思ってなかった。それが、監督室に呼ばれ1対1で向き合い、落合さんから短い言葉で『好きな番号を言え』と。あ、あの時のことを覚えて頂いていたんだと感動しましたね。それを僕から伝えると、『約束しただろう』とだけ言われました。18に憧れがあることを告げると、翌年からは本当に18番をつけさせてもらったんです」

風呂場でもらった的確なアドバイス

 中里は落合とそれほど多くの言葉を交わした記憶はない。だが、その一つ一つは印象深いものだった。ある日、宿舎の風呂場で偶然2人きりになった際の会話も鮮明に覚えている。

「投球フォームの変化などの話になり、『俺は昔のフォームの方が良かった』と伝えられました。さらに『今のフォームはこういう風になってしまっている』と、的確なアドバイスを頂いて、それが見事に全部納得できるものなんですよ。その時に、落合さんは確かに投手のことは森繁さんに任せていましたが、決して見えていないわけではなく、本当に細かいところまで見ているんだ、と。凄く印象的でしたね」

 新調した背番号とともに臨んだ2006年は、シーズン後半に中継ぎの一角として起用され、152キロを計測した。自身が掲げた「1年目よりも速いボールを」という目標を達成している。

 シーズン最終戦の広島戦ではピンチの場面で起用され、新井貴浩を三振にとるなど無失点で切り抜けた。CSの短期決戦へ向け、三振がとれる投手を求めていた首脳陣の期待に応える投球内容に、落合からは初めて「ナイスピッチング」と短く声をかけられた。多くは語らない名将の一言に、中里は確かな手応えを感じていた。

「今にして思うとですが、自分自身や周りからも『中里はこういうピッチャーだよ』という像があって、その理想だけを追い求めすぎた面はありました。自分の足りないところを補うとか、モデルチェンジじゃないですけど、変わっていくということには消極的でした」

 2006年のシーズン後半、中里はこれまでにない良い感覚でピッチングと向き合っていた。日本ハムとの日本シリーズでも2度の登板機会を得て、新庄剛志の現役最後の打席で三振に切ってとった。「火の玉」とも称されたストレートが面白いように決まり、自信を深めていた。

「ルーキーイヤーの時に近いというか、感覚的にも本当に良いボールが投げられていて手応えもあった。体の状態も良くて、かなりいいイメージでピッチングが出来ていました」

 自身を含めた誰もが、セットアッパーとしての飛躍を期待した。しかし、再び悲劇が中里を襲う。

バランスボールから落下して左肘骨折

 調子が上がらず二軍暮らしが続いていた2007年半ばにバランスボールから落下し、今度は左肘を骨折し、シーズンを棒に振った。本人曰く、その怪我は大きな影響はなかったが、ピッチングは些細なことでも歯車が狂う。特に中里のような大怪我を負った選手は、怪我の箇所を庇う意識など、ほんの小さな感覚のズレがピッチング全体に影響を与えることは想像に難しくない。

 中里は4年にも及んだリハビリ生活について、「だんたんそれが当たり前の生活になるから、そこまでつらいと思わなかった」と述べている。むしろ、怪我が癒え、良いイメージを持って以降の調整の難しさについて、もどかしさを感じていたのかもしれない。

「怪我をしてから、微妙な感覚のズレや球質の変化は多少あったと思います。投球フォームも変わりましたし、それをどう微調整出来るかも投手の大切な能力。試行錯誤を重ねながら、良くなるために一生懸命トレーニングをしてきましたし、『これで結果が出なければ仕方ない』と出来ることはやってきました。ただ、2007年からの5年間は思うようなボールがいかず苦しい時間でした」

 翌2008年はオープン戦から好調を維持し、初の開幕一軍入りを果たした。

 だが、5月には二軍降格するなど、13試合の登板にとどまり、本人からすると納得のいくパフォーマンスは出せなかった。背番号も「18」から「70」に戻されている。2009年も2試合の登板に終わり、同オフについに戦力外通告を受けた。

 2010年に再起を誓って巨人と契約するも登板は2試合止まり、2011年も一軍登板なしに終わると、その年のオフに再び戦力外通告を受けて中里は引退を決意した。

「ジャイアンツをクビになった時、まだやりたいという気持ちはありましたよ。実際にMLBのマイナーリーグや国内の独立リーグから声をかけてもらっていたので。その一方で、2006年以降はちょっとずつ『違うな』と思って投げていた部分もあったんです。だから、自分が思うところまでピッチングを戻せるのか自信もなかったし、今の自分はプロの世界では厳しいということも薄々感じていました。そしてNPBで投手としてやりたい、という意地もあった。バッターとしてやっていたら、ともよく言ってもらいましたが、実際に打者陣の練習を見ていると、トレーニングの内容も全然違いますから。僕にはバッターとしてやる、という選択肢は最初からなかった。だから(引退を)受け入れるしかなかったんです」

「真っ直ぐにこだわりたい」

 中日の入団会見でそう述べた中里の11年間のプロ野球生活は、その言葉の通り、投手として生きることにこだわり、自分の理想のストレートを追い求め続けたものだった。記録よりも記憶に残る、という言葉がこれほど当てはまる選手も稀有だと感じるのだーー。

スコアラーとして忙しい毎日

 2011年を最後に、ユニホームを脱いだ中里は現在、巨人のスコアラーとして全国を飛び回る慌ただしい日々を過ごす。先乗りスコアラーとして、各球団のデータを資料にまとめるのが中里の日課となった。

 勝敗に直結する仕事でもあり、データをチームに届ける際はいつも時間との戦いで、現役時代とは異なる苦しさを感じることもある。それと同時に、そんな苦しさが中里にとってはやりがいにもなっているのだ。選手から立場が変わったことで、一層野球の奥深さに気づいた、と中里は冷静に話す。

 選手時代は中日の黄金期の投手陣を間近で見てきた。引退後はスコアラーとして、他チームの投手陣も分析する中里に、質の高いストレートを投げると感じる投手はいるかを尋ねてみた。熟考し、長い沈黙の時間が流れた後に2人の名前が上がった。

「山本昌さんや、川上憲伸さんのキャッチボール、藤浪(晋太郎)君や大谷(翔平)君ももちろん凄いと思ったんですが、僕の中では高橋聡文と宮國椋丞は印象的でした。聡文は入団時に同じリハビリ組だったんですが、キャッチボールをしていても全然ボールが落ちてこない。リリースしてから重力に逆らっているような感じで、「ビューッ」と伸びてくるような感じでした。宮國は聡文とタイプは違うんですが、糸を引くという言葉がまさに当てはまるようなストレートを投げていた。彼にとっての最初のキャンプで立ち投げしているボールですら、綺麗な軌道でミットに収まっていき、これはいいストレートだな、と驚きましたね」

 中里は、自身と同じようなタイプの投手はあまりいない、とも分析する。そんな前置きのあと、現役の若手投手の中に、「近いストレートを投げている」と評する選手もいた。

「カープの大道温貴は、投球フォームも含めてですが僕のストレートに近いな、と見ていて感じますね。高校の後輩ということもあり慕ってくれるんですが、それを抜きにしても彼のストレートのノビは非常に魅力がありますよ」

 現役選手の中でも、中里をリアルタイムで見ていた世代は減った。それでもネット上に残る動画を視聴し、中里にストレートについて質問してくる選手もいる。世代を超え、その圧倒的な質のボールをみて虜になった投手たちから、「当時のストレートはどれくらいノビていたのか」と尋ねられる。そのストレートの秘密について聞くと、中里はこう続けた。

「リリースする指先からキャッチャーミットまで1本のラインで結ばれているイメージです。高校の時から調子が良い時はそのライン通りに投げられていた感覚がありました。 その感覚が「前で」という感じだったのかと思います。 高校からそのラインに投げるイメージはありましたが、怪我をしてからはメカニックも考えた上で、意識しながら投げていました」

「ファンを失望させたことを、今も申し訳なく思っている」

 3度の大怪我を乗り越え、その都度微調整を重ねてきた中里は、結果的に野球を深く考え、より言語化が出来るようにもなった。そしてその経験は、スコアラーとしての仕事にも活きていることは間違いない。

 もし、怪我がなければどんなプロ野球人生を過ごしていたのかーー。

 おそらく幾度となく尋ねられたであろう質問を、最後に中里に聞いた。

「プロですから、怪我をしたことも含めて自分の責任なんですよ。だから、後悔はありません。もちろん怪我をしたマイナスはたくさんありましたが、成長できた部分もあるし、そのおかげで今の自分があるとも思います。スコアラーの仕事に就いてからも、そのことをより理解出来るようになりました。ただそれでも、チームに迷惑をたくさんかけたし、ファンの人を失望させてしまったということは、今でも申し訳なく思ってしまうこともあります」

「悲運の天才」とも言われた男は、大怪我と向き合いながら、己の美学を貫き通した。そして、長いリハビリを乗り越えたからこそ、今も野球人として慌ただしい日々を過ごしている。

 現在の中里の表情をみると、「悲運」という言葉はもはやそぐわない気がするのだ。

(前編から続く)

2024-04-23T02:30:14Z dg43tfdfdgfd