早稲田大を蹴ってドラフト6位で大洋入り 屋鋪要が明かす「スーパーカートリオ」命名秘話「長嶋さんが......」

屋鋪要インタビュー(前編)

 

 大洋時代、高木豊氏、加藤博一氏とともに「スーパーカートリオ」として一世を風靡した屋鋪要氏。盗塁王3回、ゴールデングラブ賞5回など、俊足好打の外野手として活躍し、巨人時代の1994年には悲願の日本一を経験。屋鋪氏に18年間のプロ野球人生を振り返ってもらった。

【早大を蹴りドラフト6位で大洋へ】

── 屋鋪さんがプロを意識したのはいつごろですか?

屋鋪 三田学園高(兵庫)のチームメイトに強打者がいて、彼の視察でプロのスカウトが来るようになったんです。その時に、私が校舎の3階に当たる、とてつもない本塁打を打って目に留まったようです。足が速くなったのは高校2年くらいからです。

── セレクションで合格していた早稲田大より、プロを選んだのですね。

屋鋪 もともと小学6年生の卒業文集に「プロ野球選手になりたい」と書いていました。当時のドラフトは各球団6人までの指名で、私は大洋(現・DeNA)から6位指名でしたが、「回り道はやめよう」とプロを選びました。ちなみに"要(かなめ)"という名前は、社会人軟式野球チームの監督をしていた父が「チームの要」という意味から、組織にとって欠かせない人、重要な人になってほしい意味を込めて命名したそうです。のちに巨人に移籍した時、OBの与那嶺要さんからかわいがってもらいました(笑)。

── プロ入り当初、目標にしていた選手は?

屋鋪 大洋の先輩である松原誠さん(通算331本塁打)や、田代富雄さん(通算278本塁打)といったホームラン打者に憧れていました。

── 「プロでやっていける」と自信めいたものをつかんだきっかけは何ですか?

屋鋪 最初は不安のほうが強かったですね。プロ2年目の79年夏にスイッチヒッターに転向して、いきなり左打席で内角のストレートをさばいてヒットを打てたことが、かすかな希望になりました。当時は松本匡史さん(巨人)や高橋慶彦さん(広島)ら、俊足選手がスイッチヒッターに転向するのがトレンドでしたね。

── プロ6年目の83年に初の規定打席到達。翌年は、初の打率3割とゴールデングラブ賞を獲得。そして85年は打率.304、15本塁打、78打点、58盗塁と順風満帆でした。

屋鋪 85年は、キャリアハイと言えたシーズンでした。とはいえ、プロの変化球に対応するのはなかなか大変でした。85年は、盗塁王の高橋慶彦さんが78個で、2位の私が58個。勝利打点もランディ・バース(阪神)が22個で、私は15個で2位。自分で言うのもなんですが、勝負強かったんです。外野手のベストナインは真弓明信さん(阪神)、杉浦享さん(ヤクルト)、山﨑隆造さん(広島)の3人でしたが、自分も惜しいところでした。

【スーパーカートリオ誕生】

── 85年は1番に高木豊さん、2番に加藤博一さん、3番に屋鋪さんの「スーパーカートリオ」が一世を風靡しました。

屋鋪 当時、評論家だった長嶋茂雄さんがこの3人を「スポーツカートリオ」と表現したのをヒントに、近藤貞雄監督が「いま流行りのスーパーカー」にしようと言って、名づけられたと聞いています。今となっては、あの呼び名はありがたいですね。「スーパーカートリオの屋鋪さんですよね」と、いまだに思い出してもらえますから(笑)。

── 当時を振り返っていかがですか?

屋鋪 3人合計で、シーズン148盗塁(85年)はなかなかできないことだと思います。私は3番打者だったので、ふたりのうちどちらかが前の塁にいると走れない。それに4番がレオン・リーで、彼も積極的に打ってくる。スタートを切ってもファウルというのが、何度もありました。

── 屋鋪さんは86年から3年連続盗塁王のタイトルを獲得します。当時のセ・リーグは、チームメイトの高木さんをはじめ、松本匡史さん、高橋慶彦さんなどライバルが多くいました。松本さんは「屋鋪くんが一番速かった」と証言しています。

屋鋪 プロの世界、ライバル意識がなかったらやっていけません。ただ、現在は松本さんが監督を務めている玉川大学野球部から、私が監督を務めている社会人軟式野球チームに選手が入ってきますし、慶彦さんとは野球教室でよくご一緒させていただいています。かつての「盗塁王のライバル」が結んだ縁......不思議なものですよね。

── 屋鋪さんはプロ入り当初、盗塁に興味がなかったと聞いています。

屋鋪 高校時代から遠くに飛ばすことが快感でした。「野球の華は本塁打」という考え方です。プロ1年目の78年が横浜スタジアム開場ですが、打撃練習でスタンド上段やバックスクリーンまで飛ばしていました。野球の指導をする時も、スイッチヒッターや俊足打者に対しても「基本はレベルスイング。打球を転がすのではなく、バットの芯に当てて、強い打球を打ちなさい」と言っています。

── 84年から5年連続ゴールデングラブ賞に輝いています。

屋鋪 私の「動物的勘+ポジショニング」の賜物です。投手の配球と打者のタイプから打球方向を1球1球、考えていました。うまくハマったときは、普通なら捕れない打球にも追いつくことができました。守備の名手と言うと、平野謙さん(中日ほか)の送球、飯田哲也くん(ヤクルトほか)の守備範囲、新庄剛志くん(阪神ほか)の強肩などが思い浮かびます。

── 大洋時代に仕えた監督は、16年間で8人です。別当薫さん、土井淳さん、関根潤三さん、近藤貞雄さん、古葉竹識さん、須藤豊さん、江尻亮さん、近藤昭仁さん。それぞれの野球の印象は?

屋鋪 一番印象深いのは、近藤貞雄さんです。近藤さんのポリシーとして「選手と一対一で話さない」というものがあったそうで、そんなに長く話したことはありません。「選手に情を移さない」というのが、その理由らしいです。近藤さんは審判に抗議することも多かったのですが、当時はおとなしい選手が多く、監督自らチームを鼓舞していたのかなと感じていました。個人的には、6、7番を打っていた私を3番に抜擢してくれた。おかげで85年はプロとして一人前の成績を残せました。感謝しています。

【王貞治監督に巨人入りを直訴】

── 89年に当時巨人の監督だった王貞治さんにトレードで獲得してほしいと直訴したとか?

屋鋪 台湾料理の店で食事をしていると、店員さんが「今晩、巨人の王監督やコーチ陣の方の予約が入っているよ」と教えてくれたのです。一度、宿舎に戻ったあと出直して、店で待ち構えました。「王さん、巨人に引っ張ってください」と。すると王さんは「屋鋪くん、君の気持ちはよくわかったよ」と言ってくださいました。

── 今だからこそ話せる大胆な行動ですね。

屋鋪 紹興酒を1本ご馳走になりました(笑)。結果的に、大洋時代の16年間でAクラスは3度だけ。巨人のお得意さんになって「横浜大洋銀行」と揶揄された時期もありました。相手チームの胴上げを目の前で見るのは、悔しかったです。もともと私は阪神ファンでしたが、プロ野球選手として巨人に行って優勝を味わいたかった。タイトルは個人の勲章ですが、最終目標はやはりチームの優勝ですから。そのオフ、トレードが水面下で画策されていたようですが、『槙原寛己と屋鋪がトレード』と新聞にすっぱ抜かれて、トレードはご破算になりました。

── 93年オフに横浜を自由契約になり、94年は巨人でプレーすることになります。長嶋茂雄監督初の日本一に貢献されました。

屋鋪 優勝の美酒の味は最高でした。もう少し早く、巨人に行きたかったです。

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屋鋪要(やしき・かなめ)/1959年6月11日、大阪府生まれ。三田学園高(兵庫)から77年のドラフトで大洋(現・DeNA)から6位指名を受けて入団。高木豊、加藤博一とともに「スーパーカートリオ」として活躍。84年から5年連続でゴールデングラブ賞を獲得し、86年から88年まで3年連続盗塁王に輝く。94年から2年間巨人でプレーし、95年に現役引退。引退後は巨人のコーチ、解説者、野球教室など精力的に活動し、2020年から社会人軟式野球の監督を務めている。鉄道写真家としても活躍している

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