「父は家族だけの時に逝きました」 千代の富士が愛する夫人と過ごした“特別な晩年”…長男・秋元剛に聞く「千代の富士はどんな父親でしたか?」――アスリート親子論BEST

NumberWebで特集が始まった「アスリート親子論」。これまで公開されてきた記事の中から、特に人気の高かった「アスリートの親子関係」にまつわる記事を再公開します。今回は、横綱・千代の富士と息子・秋元剛さんの物語です。《初公開:2023年7月28日/肩書などはすべて当時》

千代の富士。強き横綱であり続けた男には、家族にだけ見せた優しさがあった。秋元家の長男として生まれ、ファッション業界や「株式会社秋元」取締役として活動する秋元剛がNumberWebに語る、「人間・秋元貢」の肖像――。インタビュー第2回では、千代の富士が穏やかに過ごした晩年の“家族の時間”について聞いた。《全3回の2回目/#3に続く》

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 6月1日の誕生日、健康診断に行くのは、親方となった千代の富士(先代の九重親方)の毎年のルーティンになっていた。2015年、還暦土俵入りを終えた翌週も例年通りに検査に出かけた。

 何も問題ありません。そう言われていつものように終わるはずだったのに、この年は違った。現役時代は鋼鉄と言われ、還暦土俵入りでも披露した立派な肉体に見つかった小さな異変。医師の診断は早期のすい臓がんだった。

 息子である秋元剛さんにも寝耳に水の出来事だった。

「もちろん驚きました。それから父が亡くなるまで1年ぐらいの話なんですよね。本当にそんなものだったのかなと感じます。すごく濃密な時間だったので、もっとずっと長かった気もします」

 七月場所は内臓疾患を理由に全休。その間に入院してすぐに手術に踏み切り、9月にはそのことを世間に公表もした。

「発見が早くて、腫瘍ができたのが手術ができる箇所だったので、一回手術してしまえばきっとよくなるだろうと、父本人もですが家族全員そう思っていたんです。再発予防の治療をしながら病気と付き合いつつ、65歳の定年まで頑張って、その後のこともいろいろ考えていましたから」

がん転移が判明…夫人とともに名古屋から緊急帰京

 手術は成功した。毎月の定期検診で異常は見られず、相撲協会の理事選にも一時は出馬の姿勢を示していた。もう体調に不安はないのだと、周囲も、そして本人も考えていたはずだった。

「僕らもそう思っていました」と秋元さんは言った。

 ところが、年が明けてからの定期検診で胃や肝臓への転移が判明した。不屈の横綱の心が折れることはなく、病魔を打ち負かすため、さまざまな治療法を求めて日本各地に赴き、協会の職務も弟子の指導もおろそかにすることはなかった。

 しかし、名古屋場所中に一気に体調が悪化。最初のがんの発見から1年が過ぎた頃だった。部屋のマネージャーから父の体調が良くないという連絡を受け、久美子夫人が迎えに行って緊急帰京。場所を途中休場して、すぐに入院することとなった。

「そこからは思いのほか早かったですね。術後も治療はしていたのですが、還暦といえど肉体が元気だったということで、その分病気の進行も早かったのかもしれません」

大横綱の最期…家族に見せた優しさ

 本人は土俵際まで追い込まれても病室では気落ちした様子は見せず、「なってしまったものは仕方ない」と話していたという。

「だから僕もそんなに暗い気持ちにならないようにしなきゃなと思いました。それに『早く帰れ』って言うんですよ。僕がちょうど転職をしたばかりのタイミングだったので仕事が忙しいというのをわかっているから、『見舞いに来なくていいから早く帰れ』って」

 亡くなった当日、秋元さんはすでに意識のなかった父の最後の優しさを見た気がした。

「いよいよ覚悟をしておいてください」という話がドクターからあり、会わせるべき人には会わせておかないといけないと愛弟子の千代大海(現九重親方)や後援会長ら近しい人たちに来てもらった。

「でもその日は容体が安定していて、みなさんに先に帰っていただいたんです。そろそろ僕たち家族も帰ろうかとなった時、家族だけになったその瞬間に容態が急変したんです。今まではいつだって家族以外の人がいる状況ばかりだったのに、最後は家族だけの時に逝きました。家族の時間を大事にしていた父らしい不思議なエピソードです」

 それは家族に対する精いっぱいの気遣いだったのだろうか。日本のヒーローとして生きた男は、最後は一人の夫として、子どもたちの父親として、愛する家族の前で息を引き取った。2016年7月31日、61歳だった。

晩年の千代の富士が穏やかに過ごした“夫人との時間”

 闘病生活を振り返ったとき、不安はあったに違いないが、父にとっては心穏やかな時間でもあったのではないかと秋元さんは思っている。

「何度もお話ししているように、僕たちの家族生活にはいつも家族以外の第三者が、もちろん仲のいい人たちですけど、いろいろな人が一緒にいました。それに結婚してからすぐに僕たちが生まれたので、母が父と2人で過ごす時間ってとても少なかったと思うんです」

 千代の富士が久美子夫人と結婚したのは新横綱となった翌年の1982年。そして、その翌年には第一子となる長女・優が誕生している。もちろん土俵の上では角界の大看板として全力疾走し続けていた。

「闘病中は基本的にずっと母がついていました。しばらく鹿児島に治療に行ったりもしてたんですけど、たぶん人生で一番ふたりきりになれたんじゃないのかな。父は釣りが好きだったので現地の友人と一緒に船釣りに出かけ、釣った魚を持って嬉しそうな顔をしている写真を母がスマホで撮って、それを僕たち家族にLINEで共有してくれたり。そういう意味ではとても特別な時間だったんじゃないかと思います。父が亡くなったことはもちろん悲しい出来事でしたが、とても必要な、大事な時間でもあったんじゃないかと息子としては思います」

 遺骨は東京都台東区にある玉林寺に埋葬された。秋元家では1カ月に2回、この寺を訪れているという。

長男・秋元剛に聞く「千代の富士はどんな父親でしたか?」

 千代の富士には、優、剛、梢の後に4人目の子どもとして愛という女の子がいた。しかし、1989年、生後4カ月で乳児突然死症候群のために亡くなっている。その時に千代の富士が選んだ墓が、部屋からも通いやすい距離にあった玉林寺。愛の月命日に墓を訪れるのは家族の恒例行事になっていたという。

「愛ちゃんのことは、そこまで父と母から聞いたことはありません。ただ、月命日にはお墓参りに行く。父がいる時は全員で、父が行けない時は父以外の家族だけで行ってました。愛ちゃんの月命日がちょうど月半ばくらい。父が月末なので、今は月2回になっている。そういう感じです」

 千代の富士はどんな父親だったか。あらためて秋元さんに尋ねると、少しだけ考えてこう答えた。

「普通の人でしたよ、みんなが思っているよりもきっと。普通に優しくて、普通に厳しくて、普通にひょうきんで。どうしても神格化されちゃいがちで、もちろんそういった部分もあったと思いますが、ごくごく普通の人じゃないですかね。周りへの気遣いを忘れないタイプでした。お客さんにちゃんこ鍋をよそったり、焼肉を焼いてあげたり、結構そういうことをするんです。やってもらいたいというよりは、人に何かをやってあげたいタイプだったと思います」

 蝉が鳴き始める季節になった。もうすぐ千代の富士の7度目の命日を迎える。 

〈#3へ続く〉

2024-04-18T02:05:29Z dg43tfdfdgfd