“相撲界から消えた天才横綱”双羽黒こと北尾光司の素顔とは?「研究熱心で教え上手」「あの“やんちゃ横綱”を絶賛」相撲愛を貫いた55年の生涯―2024上半期読まれた記事

2023ー24年の期間内(対象:2023年12月~2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。格闘技・ボクシング部門の第5位は、こちら!(初公開日 2024年3月15日/肩書などはすべて当時)。

誰もが羨む体格と天賦の才に恵まれながら、数々のトラブルで師弟関係が破綻し、優勝未経験のまま24歳の若さで廃業した横綱・双羽黒こと北尾光司。プロレス時代も含めて問題児として知られた一方で、その相撲愛と指導力は紛うことなき“本物”だった。2019年に55年の短い生涯を閉じた“消えた天才横綱”の逸話を紹介する。(全2回の2回目/前編へ)

じつは“稽古嫌い”ではなかった双羽黒

 元横綱・双羽黒の北尾光司氏が、立浪部屋のアドバイザーとして“角界復帰”を果たしたのが2003年(平成15年)9月。確執があった先代立浪(元関脇・羽黒山)はすでに、定年により角界を去っていた。部屋内のトラブルが原因で“廃業”した北尾氏だったが、相撲協会とのわだかまりなどはなく、翌2004年4月に開催された「横綱会」にも参加している。

 横綱会とは、相撲協会に所属する元横綱の親方衆と現役横綱で構成された親睦会で、九州場所前に開催されるのが恒例である。昨年九州場所前には、コロナ禍を経て4年ぶりに開かれた。今からちょうど20年前の横綱会は通常の時期ではない4月に行われ、角界を離れた横綱OBたちにも特別に声が掛かり、歴代のレジェンドたちが一堂に会する超豪華版だった。理事長も務めた初代若乃花の花田勝治氏、相撲解説者に転身した北の富士勝昭氏、輪島大士氏、3代目若乃花こと花田勝氏らとともに、北尾氏も元気な姿を見せていた。

 現役時代は“稽古嫌い”とも言われた第60代横綱だが、日ごろの鍛錬をないがしろにしたまま、角界の頂点に上り詰めた者などいるはずがない。若いころは入院中に落ちた筋力を取り戻すために、退院後はたっぷりと四股を踏み、一日500回が日課のスクワットもこなしながら下半身強化に努めた。また、持病の腰痛を克服するために、幕下時代には独学で太極拳をマスターするなど、研究熱心でもあった。

 当時、部屋には関取がいなかったため、高砂部屋へ精力的に出向いてメキメキと力をつけていった。綱取り場所前も高砂部屋や、保志(北勝海)や千代の富士のいる九重部屋などに積極的な出稽古に赴き、その努力が実を結ぶことになる。

 こうして1986年(昭和61年)名古屋場所後、横綱に推挙されたが、7月29日から始まった夏巡業中の8月7日に虫垂炎を患って途中リタイヤ。それでも3日間入院しただけで再合流し、巡業最大の目玉である新横綱として24日の最終日まで務め上げた。その後は地元三重県津市に凱旋し、祝賀パレード。関係各所への挨拶回りなど多忙を極めるなかで、食当たりを起こして秋場所前に入院。9月3日の横審稽古総見では極度の腹痛を押して参加したものの、11番を取ったところでやむなく稽古を切り上げた。

「それでも稽古不足って言われるんですよ」とのちに“ぼやき節”を聞いたことがある。双羽黒と言えば“稽古嫌い”という不本意な枕詞は、最後まで付きまとった。

あの“やんちゃ横綱”に抱いていたシンパシー

 角界を去ったのち、初めて参加した横綱会で遭遇した当時23歳の横綱・朝青龍には、タイプこそ違うが、ある部分ではかつての自分との共通点を見出していたのかもしれない。「他の力士も見習ってほしい」と感心しきりだった。

「あの吸収力はすごいですよ。稽古以外にも体のメンテナンスのことなんかをお酒の席でも、いろんな人にどん欲に聞いていく。だから横綱にもなれたんでしょうね」

 のちに史上4位となる25回の優勝を果たす“やんちゃ横綱”が、綱を張ってまだ1年しか経過してないころだ。すでに力士の大型化が叫ばれて久しかった時代に、幕内の平均体重以下の140キロながら強敵を次々となぎ倒す“蒼き狼”の全体的な体のバランスのよさも絶賛していた。

「余計な力が入ると勝てなくなる。相撲に必要な筋肉が備わっていれば、あとは惰力だけで十分。イチロー選手なんか肩の力を完全に抜いて無駄な力をなくしているから、一点に集中した力が出せる。横綱になれば、無駄な力が抜けて相撲に必要な力だけをうまく出せるようになれますから」という語り口は、朝青龍を引き合いに出しつつ、自らの短かった横綱時代の経験を振り返るようでもあった。

「大好きな大相撲」の将来を案じる言葉も…

 のちに幕内で活躍するモンゴル出身の猛虎浪が、まだ三段目で燻っていたころ、元横綱は「一気に上に上がって負け越すよりは、(幕下以下の勝ち越しとなる)4勝でいいんだぞ」と声を掛けていた。「北尾さんの指導は細かくてうまいですね。稽古も限られた番数しかやらせないけど、うちの猛虎浪は北尾さんにいろいろ教わってから伸びましたから。相撲が好きだったのがわかりますね」と当時、立浪部屋の先輩格だった力士は証言する。

「精神的なものでもすぐに体のバランスが崩れて、それが相撲に現れる」と説く北尾氏のエッセンスを吸収した猛虎浪は、即座に幕下に昇進すると4勝3敗の“亀の歩み”ながら着実に番付を上げていく。幕下上位に躍進してからは2場所連続で6勝の大勝ちをマークするなど、一気に番付を駆け上がって関取に昇進した。

 北尾氏の立浪部屋のアドバイザーとしての活動期間は、わずか1年ほど。実際に稽古を見るのも数えるほどであったはずだが、まだ関取が誕生する前の部屋がにわかに活気づく、一つのきっかけにはなった。短期間ではあったが“里帰り”した際は、志半ばで離れざるを得なかった大好きな大相撲の将来も案じていた。

「相撲をやりたい子供は増えているけど、接点がないと思う。一方で巡業をやっている人(勧進元)もたくさんいる。そういう子たちのラインを作ってあげないと。相撲は決して魅力のないスポーツではない。入りたい人と入れたい人が、噛み合ってないんじゃないか」

 就職場所と言われる春場所の入門者が、今年は義務教育修了が新弟子検査の受験資格に定着した1973年(昭和48年)以降で最少となる27人だったことが報じられた。昨今の新弟子は、学校の相撲部や相撲道場出身者などの経験者が多くを占めるようになったが、20年前に北尾氏が指摘したように、相撲をやりたくても周囲に何ら伝手を持たない子供たちが、今もまだ全国に埋もれているかもしれない。

 その後の北尾氏は表舞台から姿を消し、2019年(平成31年)2月、長い闘病生活の末、55歳の短い生涯をひっそりと閉じるのであった。

<前編から続く>

2024-05-05T21:09:50Z dg43tfdfdgfd