箱根駅伝“1年生で2区12人抜き”あの天才留学生…オムワンバは今、長崎にいた「後悔がゼロ、は嘘になるけど…」「まだ“見習い”です」―2024上半期 BEST5

2023ー24年の期間内(対象:2023年12月~2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。箱根駅伝インタビュー部門の第2位は、こちら!(初公開日 2024年1月5日/肩書などはすべて当時)。

 2013年の箱根駅伝2区。山梨学院大の1年生ランナー、エノック・オムワンバは12人を抜く激走を見せた。だが箱根の完走はその1度のみで、記録上は途中棄権に終わった翌2014年が最後。残り2年間、なぜ箱根を走れなかったのか。そして今なぜ長崎にいるのか。オムワンバを訪ねた。〈全2回の2回目〉

 エノック・オムワンバは箱根駅伝2区を途中棄権した。2014年1月2日、2区をまさに走っている最中での疲労骨折だった。

3年時は「箱根の2日前に離脱」

 練習復帰までに3ヵ月を要した。5月の関東インカレで1500mと5000mの2冠、10月の箱根駅伝予選会も個人2位。だが、完全復活は遠いと感じていた。「あの日以来、コンディションが100%の日はなかった」。冬になると痛みが増す。右脚をかばう走り方がクセになり、体のバランスを崩した。3年時、箱根駅伝にエントリーされるも、右アキレス腱痛の影響から12月31日に離脱した。

 2015年4月、それまで3年間オムワンバだけだった留学生が、1人加わった。ドミニク・ニャイロである。母国語のスワヒリ語で故郷の話ができた。

「僕が日本に来た当初、とにかくウガリが食べたかった。ニャイロもすごく恋しがってた。小麦粉を買いに行って、一緒に作ったね。ニャイロの気持ちがわかるから。『最初の1年はキツイけど頑張ろう』って伝えた」

 だが、身体の状態は戻らなかった。3年時のアキレス腱痛につづき、4年時は右膝痛を抱えた。最後の箱根駅伝に照準を合わせて、全日本駅伝、出雲駅伝の出場は見送られ、代わりに走ったニャイロが区間賞を獲得した。

オムワンバか、ニャイロか…箱根前夜の記憶

 山梨学院大の上田誠仁監督は苦悩していたはずだ。箱根の2区に起用するランナーを誰にするか。つまり、オムワンバか、ニャイロか。  

〈自分が不振であえいでいる時もエノックはニャイロのことを優先した。そういう人間性をみんなが見て認めている〉(上田監督)

〈箱根の借りは箱根でしか返せない。当然、今回が最後というのは考慮します〉(上田監督)

〈最後だから先輩に走ってほしい〉(ニャイロ)※いずれも東京新聞/2015年12月28日付

 オムワンバの心中はこうだった。 

「4年の時は行けるかなって。走りたかった。レースプランも考えていた。抑えて入って、体が温まった10km以降で勝負する。70%くらいのコンディションと感じていた」 

 2016年1月1日の夜。オムワンバの部屋を訪ねた上田監督が告げた。

「明日の2区、ニャイロが走ります。あなたには未来がある。実業団がある。ニャイロをサポートしてあげてください」

走れなかった箱根…オムワンバの「その後」

 オムワンバの起用はいわば“賭け”だった。出場回避は将来を見据えた決断ともいえる。オムワンバも「仕方ないよね」と納得した。だが「でも……やっぱり走りたかったよね。前日まで走る気だったから」とも続けた。

 当日、オムワンバはニャイロのサポートに回った。鶴見中継所に同行し、一つだけ伝えた。  

「最初から飛ばしすぎないように、って何度も言った。でもやっぱりニャイロ、飛ばしてたね……。気持ちはわかるけどさ」

 ニャイロは快走した。12人抜いたオムワンバの1年時と同じ、区間2位だった。

 記録上、オムワンバが箱根駅伝を完走したのは1度。4年連続で走ったジョセフ・オツオリやメクボ・ジョブ・モグスに比べ、実績は劣る。だが、実業団の三菱日立パワーシステムズ長崎(現:三菱重工)マラソン部の監督、黒木純はオムワンバの獲得を熱望した。  

「エノックにとって箱根はいい思い出がないんじゃないかな。それでいて、“駅伝”を誰よりも理解しているのもエノックだと思うんです。ひょっとすると日本人よりも深く。彼の4年間は誰もが経験できるものじゃない。日本の文化を理解しているし、ゆくゆくは指導者としても可能性があると思いました」

 当の本人は、オリンピック選手になる夢を捨てていなかった。三菱日立への入社は2016年、オムワンバ23歳のとき。コンディションさえ戻れば中距離で勝負できると信じていた。

 ニューイヤー駅伝にも4度出場した。準優勝メンバーの一員にもなった。最後の出場は2020年、区間25位に終わっていた。

 翌年、黒木からコーチの打診を受けた。「時間をください」と伝え、冷静に考えた。  

「選手としてどうか。現実的にダメでした。痛みがなくならないし、もう伸びないだろうと。はっきり言うのは初めてだけど……心のどこかでオリンピックは諦めていた。ただ、その夢は指導者になっても引き継げると思った。ここに来ている留学生でも、日本人でも。あるいは自分の子どもでもね」

昨年結婚、現在は「コーチ見習いです」  

 昨年、ケニア人女性と結婚した。離れて暮らす妻から「寂しい」と伝えられると心が痛むが、日本に呼ぶには実績が足りない。「まだコーチ見習いです」と笑う。ゆくゆくは独り立ちできるほどの指導者になりたいという。 

 オムワンバの話を聞いていて思う。指導者としての未来は拓けた。だが同時に、駅伝と出会わなければ……競技人生は違うものになっていたはずだ。早い段階から中距離に専念する道があれば、オリンピック出場もありえたかもしれない。自分の決断について問うと、しばし熟考し、こう語った。 

「もしかしたら、選手として成功できていたかもしれないね。駅伝の距離(20km前後)のオリンピック種目はないし……でもね、たとえばケニアから直接、実業団に行っていたとする。日本語も文化も知らずにプロとして活動する。そこでケガをしたら、終わりだよね。プロは成績がすべてだから。その意味では、あの4年間があったから、日本文化を学べたから、黒木監督が誘ってくれたんだと思う。もっと身体をケアしていれば、という後悔がゼロと言ったら嘘になるけど、あの経験があったから今こうして長崎にいられる、とも思うよ」

マヤカ、モグスと今も交流  

 プロアスリートとしてのキャリアは終わった。週に2回ほどビールを飲むようになった。好きな銘柄はスーパードライ。桜美林大の監督になったマヤカ(真也加ステファン)、アメリカで会社員になったモグスら留学生との交流も続き、会えばやはり「ハコネ」が話題に上がるという。

 結婚した妻について、地元のキシイについて。オムワンバは目を輝かせながら話していた。しかし、駅伝の話になると口調が落ち着く。そして伝える風でもなく、こうつぶやく。「もう一回、駅伝走りたかったな。箱根走りたかった」  

 エノックが誰よりも駅伝を理解している――黒木が語っていた言葉の真意が少しわかったような気がした。

2024-05-05T02:06:51Z dg43tfdfdgfd