「落合、早くやめろ!」巨人OB“落合不要論”に怒った42歳落合博満「落合VS松井の不仲説は本当だった?」21歳松井秀喜から4番を奪い返すまで

40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。

あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第18回(前編・後編)、落合博満vs松井秀喜、約20歳差の“新4番争い”。開幕戦は21歳松井が4番に。“落合不要論”も騒がれるなか、42歳落合が4番を取り返すまで。【連載第18回の前編/後編へ】

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「松井はどうや」「よく話をするよ」

「打撃の話をすればね。ベンチでよく話をするよ。これが同じ一塁のポジションを争っているライバルならこんなにいろいろ教えないけどね(笑)」(週刊現代1996年5月11日・18日号)

 42歳の落合博満は、元阪神のエース江夏豊との対談で「松井はどうや」と21歳の松井秀喜のことを聞かれると、そういって笑った。落合は駆け出しの若手時代、5歳上の江夏とマージャン卓を囲んだ際に自分の手牌を読まれ、「お前ほど待ちの分かりやすいバッターはいないよ。一球ごとにコロコロ待ちダマをかえてきよる。投手は、じっと構えていられるほうが怖いもんよ」と指摘されたという。この遊びの席での大投手からのヒントを本業の野球に応用するクレバーさが、落合にはあった。

 1996年シーズン、落合は巨人移籍3年目にして、初めて開幕戦を慣れ親しんだ4番ではなく、「5番一塁」で迎えていた。入団時に長嶋監督が“4番1000日計画”を掲げた松井がプロ4年目を迎え、自身初の開幕4番に座ったのである。

 その際、長嶋監督は事前に落合に対して「悪いけど開幕は……」と一声かけたが、「監督、そんなに気を使わないで下さい」とだけ返答するオレ流がいた。首脳陣、マスコミ、ファン……すべてが外様でベテランの自分ではなく、若い松井に4番を打たせたがっていると冷静に己の立ち位置を見ていたのである。

「オレとしては、4番を外れたけど、気持ちのタガまで外れてしまったわけじゃないから。あいつを補助してやるのは(シェーン)マックじゃなくてあくまでオレ。オレが5番に控えて、ガンガン打ってチームが勝てば、あいつもそれほど4番の重圧を感じなくて済むようになる」(週刊現代1996年5月11日・18日号)

「危険球じゃないか!」から“ニヤリ”

 そして迎えた4月5日、阪神との開幕戦で4番松井は1安打に終わるも、5番落合が先制のタイムリー二塁打を含む2安打2打点とチームを勝利に導いた。

 野村克也率いる前年の日本一球団とのシーズン初顔合わせとなった4月9日のヤクルト戦では、同点に追いつかれた直後の6回表に山部太から1号アーチを神宮球場の左翼席に叩き込む。「狙ってました。松井も凡退してひと息ついたところでしたから」とホームラン談話を残した42歳4カ月の一発は、セ・リーグの日本人選手最年長本塁打(当時)でもあった。

「意地、とかじゃない。最近の私は野球を楽しんでやってますから。ただ、これだけ若い選手が出てきて、それをサポートしてやれるのは我々しかいません」(週刊ベースボール1996年4月29日号)

 プロの世界で生き延びてきた42歳の大ベテランは、あくまで「5番降格」ではなく、「4番を守る5番」の役割を自らプロデュースしてみせたのである。4月12日の横浜戦では、盛田幸妃の投じた140キロの速球が、落合の頭部付近を襲い、打席でバットで頭をかばうように倒れこんだ。間一髪で避けると、起き上がるなり、「危険球じゃないか! 昨年も何度もあったぞ!」と鬼の形相で渡田均球審に詰め寄り、捕手の谷繁元信にも抗議した。だが、直後にニヤリと笑ってみせる背番号6の姿。5番落合は、相手バッテリーや審判、さらには自分の前を打つ松井との心理戦を楽しんでいるかのようにすら見えた。

「落合不要論」に猛反発

 開幕前の順位予想で、400勝投手の金田正一が「巨人が優勝。落合を使わないという条件で」と発言するなど、相変わらず球界OBたちは落合不要論を口にした。当の本人は涼しい顔でグラウンドに立ち続けたが、腹の中では「プロに年齢は関係ない」と怒りの炎を燃やしていた。

「監督、コーチは別にして、『こいつ、もうひと花咲かせてくれないかな』と、心配しつつも希望的観測で見ていてくれたのは関根(潤三)さんぐらいじゃないの。あとは『こいつ、早くやめればいいのに。何やってんだ、この馬鹿。いい歳こいて、お前なんかに何ができるっていうんだ。早くやめろ。野球界のマイナスになることはあっても、プラスになることはない』と思っていた人間ばっかりじゃない。今年(96年)はそういうことに対する反発で野球をやっていたようなものなんだ」(不敗人生 43歳からの挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)

 いつの時代も評論家は世代交代を論じ、マスメディアはニュースターの出現を追いかけ、ファンは生え抜きの若手の台頭を待ち望む。いわば巨人の落合は、救世主であると同時に生え抜きスターの原辰徳を引退に追いやり、期待のニュースター松井秀喜の4番を阻む「外敵」だった。球界OBたちは国民的ヒーローの長嶋監督を表立って強く批判することはできない。若い松井を叩けば世間から総スカンを食らうだろう。だから、落合をターゲットにしつこく批判し続けたのだ。しかし、25歳の遅いプロ入りで、観客のほとんどいないパ・リーグの二軍から泥にまみれて這い上がってきたオレ流にとって、若手に「ハイどうぞ」と自分の居場所を黙って譲るつもりはなかった。

「巨人がオレをいらないなら…」

「よくOBが『吉岡(佑弐)や大森(剛)を育てろ』とかいうだろう。でも、それで負けたらボロクソいうわけだ、監督のことを。周りは勝手なことばかりいうんだ。若い奴を育てながら勝つなんて、できるわけがない。プロの世界は、人に育ててもらうところじゃない。自分で育って、自分で這い上がってくるところなんだ」(週刊ポスト1996年4月19日号)

 Jリーガーのラモス瑠偉との憤激対談企画で、落合はそう自説をぶった。「若手が実力で勝負してオレに勝てば、オレはヴェルディを出ていく。それで、オレをほしいチームがあったら、すぐにそっちに行く」というラモスに対して、「行くよな。ジャイアンツがオレをいらないとなって、他のチームがオレをほしいとなれば、オレもそっちへ行く」と頷いてみせるオレ流。それはまるで自身に待ち受ける嵐のオフを予感しているかのようだった。

「打率.354」42歳は4番を取り返した

 開幕スタートダッシュに失敗して、「ロケットは不発に終わりました。フロリダ沖に消えました」なんて長嶋監督が肩を落とした巨人は、4月終了時、7勝12敗で5位に沈んだ。4番の重圧に苦しんだ松井は19試合でわずか7打点。チーム打率.228もリーグ最低だったが、落合は打撃ベストテンの3位につける打率.354、さらに5本塁打、19打点とひとり気を吐いた。

「監督が決めたのなら従うまでだけど、『四番というのはこういうもんだよ』と見せてやらなきゃと思っていた。あの年は、最初松井がランナーをいっぱい残していってくれたから、コツコツと返していった。結局一カ月で代わりましたけれど、彼は良い経験をしたんじゃないのかな?」(VHS「長嶋茂雄 第三巻 背番号33の時代」/メディアファクトリー)

 ついに5月1日の中日戦から、長嶋監督は4番松井に一旦見切りをつけ、昨年までと同じ「3番松井、4番落合」の並びに戻した。その中日戦で、落合はあの乱闘騒ぎに巻き込まれるのである。

<続く>

2024-04-28T02:09:13Z dg43tfdfdgfd