野茂英雄が突然の告白「来年からメジャーで投げようと思ってるんです」年俸1000万円でもドジャースを選んだワケ “裏切り者”から“日本の誇り”へ

 大谷翔平加入の29年前、ドジャースファンは日本人選手の能力の高さを知った。「裏切り者」と呼ばれながら海を渡った男は、いかにして熱狂を生み出したのか。当時、密着取材を許された筆者が、野茂英雄の信念と知られざる葛藤を描く。

【初出:発売中のNumber1094・1095号[追想ドキュメント]「1995年の野茂英雄」より】

野茂は突然切り出した「来年からメジャーで投げる」

 近鉄バファローズの東京遠征に合わせ、野茂英雄とはよく六本木で酒を酌み交わした。

 1994年8月。蒸し暑い夏の夜のことだった。他愛もない会話が続く中、肩の調子が思わしくなかった彼にはあえて野球の話は振らずにいた。

 すると、野茂は突然切り出した。

「来年からメジャーで投げようと思っているんです」

 耳を疑った。時代は今とは全く違う。メジャーでプレーしている日本人選手など誰一人としていない。

――そんなことができるのか?

 彼は言った。

「できますよ。任意引退になれば」

 4カ月後、彼は近鉄から任意引退選手になる了承を取り付けた。12月21日、都ホテル大阪でのことだった。

「任意引退」は所属球団との交渉において、統一契約書で選手に与えられていた唯一の権利だった。彼から近鉄にこの権利を求めたことは一度もない。要求したのは「複数年契約」のみ。だが当時、複数年契約は一般的ではなく、球団との交渉は紛糾を極めた。それが叶えられないなら、夢であるメジャーを目指したい。痺れを切らしたのは近鉄球団だった。

“我々の条件でサインできないなら任意引退だ”

 こんな話が出たと聞く。球団は任意引退同意書にサインを求め、野茂は署名した。

 発表は'95年1月9日。日本球界史上初となる新人からの4年連続最多勝、最多奪三振に輝いた日本最高投手は、突然に任意引退選手となった。そしてメジャー挑戦を表明。日本中が大騒ぎとなった。

ドジャースを選んだのは「オマリーさんがいたから」

 1月30日、野茂が海を渡った。最初に向かったのはシアトル。空港へはマリナーズのトレーナー、リック・グリフィンがピックアップトラックで迎えにきた。翌日、当時の本拠地キングドームのクラブハウスに案内され、ケン・グリフィーJr.のジャージーをもらった。野茂の表情はまるで子どもだった。シアトルには3日間滞在し、身体検査も行った。受けた提示は2年総額150万ドル(当時のレートで約1億4800万円)のメジャー契約。米国でも野茂が求められていることがわかった。

 次はサンフランシスコだった。空港ではジャイアンツのボブ・クインGMが花束を持って待っていた。迎えの車は黒塗りのロング・リムジンカー。メジャーらしい歓迎に野茂の表情も緩んだ。翌日、本拠地キャンドルスティック・パークの大型スクリーンには「Welcome, Hideo Nomo」の文字が大きく映し出されていた。バリー・ボンズも在籍するジャイアンツからのオファーは2年総額180万ドル(約1億7700万円)のメジャー契約。'94年に日本で野茂が手にしていた推定1億4000万円の年俸と比べ、金額には大差がなかった。日本最高投手と言えど、メジャー球団も大盤振る舞いできる時代ではなかった。

 そして、ついにロサンゼルスへ入った。実はこの時点では、まだドジャースとの交渉予定はなかった。決まっていたのは、数日後にニューヨークへ向かいヤンキースと交渉することだけ。代理人のダン野村氏は「ジョージ・スタインブレナー・オーナーは獲得にノリノリだ」と言う。その情報を聞きつけたドジャースが、電光石火のごとく動いたのだった。

 ピーター・オマリー・オーナーが交渉の場に選んだのは1921年創業の老舗ステーキハウス「パシフィック・ダイニング・カー」だった。野茂はこの席でオマリー氏の人柄、野球を愛する心、家族経営だったドジャースのアットホームな姿勢に心を打たれた。契約金は200万ドル(約1億9700万円)、年俸はメジャー昇格時に最低保証額の10万9000ドル(約1100万円)。しかし、前年夏に始まったストライキの影響で、マイナーからのスタートだった。もしマイナーのままシーズンを過ごせば、年俸は6万ドル(約600万円)にしかならない。それでも野茂はドジャースを選んだ。

 2月12日、ドジャースタジアムのオーナールームで契約書にサインした。彼に決め手を聞いた。答えはシンプルだった。

「オマリーさんがいたからです」

 ニューヨークへは行かず、ヤンキースとは交渉さえも行わなかった。

「いつかストライキは終わりますから」

 密着取材を許された筆者は、野茂と行動をともにする中で幾度も彼が持つ「己を信じる力」「周囲に惑わされない強さ」に心を打たれた。権力にも決して屈しない。前例なき時代に、道を切り開く強さを誰が持っていただろうか。だが、彼の挑戦はまだ序章に過ぎなかった。

 3月3日、ドジャースが春季キャンプを張るフロリダ州ベロビーチに入った。まだメジャーリーグはストライキが解除される見通しもない。それでも彼は笑っていた。

「いつかストライキは終わりますから」

 自分にコントロールできないことは気にしない。それも彼の強さのひとつだ。

 4月2日、ストライキが解除されるとベロビーチにメジャーリーガーが集まった。

「元気ですか? 日本語、少し話せます」

 笑顔で話しかけてきたのは正捕手であり主砲のマイク・ピアザだった。初めてピアザ相手にブルペンで投げた日、野茂はいつになく上機嫌だった。

「ピアザが僕のことを理解しようとしてくれる。どの球をどういう時に投げたいのか。メジャーの捕手が僕を理解してくれるか不安でしたが、彼ならば大丈夫と安心しました」

 捕手として、ピアザを肩が弱く、ディフェンスが悪いと酷評する者もいた。だが感性が似たふたりは最高のコンビとなった。

「裏切り者」から「日本の誇り」へ

 5月2日、ジャイアンツとのデビュー戦で5回を1安打、7奪三振、無失点の快投。打線の援護なくメジャー初勝利はならなかったが、誰もがNPBよりレベルが高いと認識していたMLBでの華々しいデビューに評価は一変した。「裏切り者」「わがまま」から「日本の誇り」へ。「第二の野茂を出すな」と大号令を出していたNPBコミッショナーまでもが掌を返した。

 滑るメジャー公式球、固く傾斜のきついマウンドは、海を渡る投手の多くが適応を迫られる。だが、今では日本の野球ファンにも浸透したこの種の苦労話を、野茂からは一度も聞いたことがなかった。日本時代と同様の投球フォームから投げ、ハンバーガーやホットドッグの食文化も気にしない。

 その彼が一度だけ、弱音を吐いたことがあった。5月29日、深夜のフィラデルフィアでのことだった。

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