「化け物のような選手に育てたかった」“天才・伊藤美誠”を鍛えた母の“鬼レッスン”「幼稚園生で1日7時間練習」「自費で中国遠征」――アスリート親子論BEST

NumberWebで特集が始まった「アスリート親子論」。これまで公開されてきた記事の中から、特に人気の高かった「アスリートの親子関係」にまつわる記事を再公開します。今回は、伊藤美誠選手と母・美乃りさんの物語です。《初出『Sports Graphic Number』894号 2016年1月21日発売/肩書などはすべて当時》

 第3ゲームまでのスコアを確認した日本女子代表監督の村上恭和は、落胆と肯定の入りまじった複雑な気持ちになった。

 2015年3月、卓球ワールドツアーのドイツオープンシングルス一回戦。当時14歳で、世界ランキング38位だった伊藤美誠は、ランキング8位のハン・イン(ドイツ)と対戦し、3ゲームを立て続けに失っていた。しかも、伊藤が奪ったポイントはそれぞれ3点、4点、4点と、圧倒的な力量差があるとしか思えないスコアだった。

「伊藤のポテンシャルに期待したのですが、やはり、ヨーロッパ最高峰のカットマンにはまだ通用しなかったか、と」

「奇跡としか表現できないプレー」

 だが、第4ゲームを迎えたとき、日本のホープは冷静だった。いや、その逆境を楽しんでいたといってもいいかもしれない。

「もうダメだっていう気持ちはぜんぜんなかったです」と、伊藤は振り返る。

「ハン・イン選手が出すボールの回転がわからなくて、それまでは慎重にレシーブしていたんですが、弱いボールを返すから、相手はよけいに強い回転がかけやすくなる。そんな悪循環が続いていたんです。もう、最後なんだから、思い切って振っていこう。ボールを入れるんじゃなく、攻めていこう。ここから逆転したらすごいぞって気持ちを切り替えました」

 そのあと、ドイツの観客の前で身長153cmの日本人選手が繰り広げたのは、村上の言葉を借りれば「奇跡としか表現できないプレー」である。第4ゲームも一度はマッチポイントを握られたが、そのビンチを強打でしのいでこのゲームを奪うと、その後は思い切ったドライブでハン・インのレシープを浮かせ、強烈なスマッシュをコーナーに決めていく。

 驚異的な粘りをみせた伊藤は4-3の大逆転で金星をあげると、その後も強豪を次々と倒し、14歳152日の史上最年少でワールドツアーシングルス優勝を果たした。

石川、福原に続いた“15歳の天才”

 1年前、平野美宇と組んだダブルスで同大会を制した天才卓球少女は、さらに大きな衝撃を世界に与えたのである。翌月の世界ランキングを一気に15位に上げた伊藤は、そのまま2015年9月の時点で石川佳純、福原愛に続く日本人3位のランキングを維持し、リオ五輪代表の座を射止めたのだ。

 2012年のロンドン五輪女子団体戦で、福原と石川、平野早矢香を日本卓球初の銀メダルに導いた村上は「3人目の代表に伊藤が入ってくるとは1年前には思ってもいませんでした」と、自らも運営に関わる卓球私塾「関西卓球アカデミー」に所属する中学生の成長に驚きを隠さない。

「4年に1度のチャンスしかない五輪代表になるために最も必要なのは『運』です。でも、運をたぐりよせるには、準備が必要なんです。まだ15歳になったばかりですが、伊藤は五輸代表になるための準備をしっかりと積み上げてきたのです」

2歳の時、母は「これはとんでもない才能だ」

 伊藤が卓球を始めたのは、3歳の誕生日をむかえる直前である。

 母、美乃りがプレーする姿を、いつもコートの隅で見つめていた娘が「わたしもやりたい」と言い出したのだ。

 当時暮らしていた横浜市内の卓球ショップで子供用のラケットを購入したが、母は娘が卓球を始めるのに否定的だった。

「美誠のために、自分の練習時間が削られるのが嫌だったんです。私自身が現役選手としてストイックに卓球と向き合っているときでしたから」

 だが、近所の公民館ではじめて娘にボールを出したとき、その考えは一変した。

「美誠は両足のスタンスをきめ、ラケットをひいてボールを手元にしっかり呼びこんでから、ラバーでボールをこするようにやわらかく打ち返したんです。これはとんでもない才能だ、私なんかが卓球をやってる場合じゃないと思いました」

 その時間から、母と娘の“準備”は始まったのである。

「うちのお母さんは愛情を注いでくれるけど鬼なんです」

 静岡県磐田市に引っ越すと、リビングに卓球台を置いた。幼稚園に入園した伊藤は一日最低でも4時間、休日は7時間以上、卓球台の前に立った。母娘で布団を並べ、眠りについた娘の隣でその日の練習を振り返るのが母の日課だったが、やるべき練習をしていないことに気づくと、深夜でも娘を起こし、一緒にそのメニューをこなした。

 伊藤は「うちのお母さんは愛情を注いでくれるけど鬼なんです。だから、他の人にどれだけ厳しくされても、私は平気」と言って笑うが、美乃りは「ネット越しにいる美誠を抱きしめたい衝動と何度も戦いました。でも、私は娘の人生を卓球を軸にデザインしてあげたかった。そのために、相手の選手がまったくプレーを予測できない、化け物のような選手に育てたかったんです」と言う。

 中国に優秀なジュニアの指導者がいると聞くと、仕事を3つ掛け持ちして遠征費を工面した。メンタルトレーニングを研究している大学教授のもとへ、小学生になったばかりの娘を連れて行ったこともある。対戦相手はもちろん、相手ベンチや観客の思いを想像するくせをつけ、どんな局面でも自分だけの思考でゲームメイクしないように言い聞かせた。

 特筆すべきは、年齢を重ねてから初めてラケットを握り、自己流のスタイルで卓球を楽しむ人たちにも積極的に声をかけ、娘の相手をしてもらったことである。

「世界の頂点を争う選手はみんな、個性の塊です。教科書通りのスタイルに染まってしまうと、本当の天才たちには対応できません。うまくはなくても、見たことのないスイングをしたりサーブを出したりする人とやることは、とても大切な練習になるんです」

対応力を磨いた、セオリーにとらわれない母の指導

 小学生のころから伊藤のプレーを見てきた村上は「セオリーにとらわれない母親の指導が、伊藤の技術の確かさ、とりわけ対応力につながっている」と語る。

「対応力があるから、苦手な戦型が少ないんです。どんな局面でも、自分のプレーに不安を抱くことがないメンタルの強さも、母親の指導の賜だと思います。今のトップ選手は、親が熱心に指導したケースが多いのですが、伊藤の場合は母親の情熱とオリジナリティという点で突出しているのではないでしょうか」

 伊藤の名が卓球界で知れ渡ってくると、美乃りのもとに息子や娘に卓球を教えて欲しいというオファーが届くようになった。だが、彼女はそのすべてに、首を振った。

「申し訳ありませんが、お子さんの命を保証できませんから」と。

「東京五輪で、金メダルを獲ることが人生最大の目標」

 ロンドン五輪で日本の卓球界が初の銀メダル獲得に沸いたとき、伊藤はまだ小学6年生だった。世界ランキングもまだ3ケタだったと、本人は記憶している。

「シングルスは現地で観戦し、団体戦は帰国してからテレビで見て感動しました。私もあんな舞台でプレーしたいと思い、いろんな場所で4年後のリオに出たいと言いましたが、心の中では難しいだろうなと思っていました」

 意識が変わったのは、東京が2020年夏季五輪の開催地に選ばれてからである。

「19歳で迎える東京五輪で、金メダルを獲ることが私の人生最大の目標になりました。その日標を達成するために、オリンピックという特別な舞台を東京までに経験しておきたいと思ったんです」

 もちろん、五輪代表をめぐる争いは甘くなかった。

 小学生のころから海外遠征に慣れているとはいえ、ランキングポイントを常に意識しながらワールドツアーを転戦するのは、14歳の少女にとって過酷な挑戦だった。

「5月半ばからベラルーシ、クロアチア、フィリピン、オーストラリアと4連戦したときはきつかった」と、伊藤は振り返る。

 ベラルーシで優勝、クロアチアでも3位に入ったが、続くフィリピンは初戦敗退、オーストラリアも2回戦で姿を消した。

「フィリピンで辛いものを食べたせいで胃腸がおかしくなって、体が動かなくなりました。ドイツで優勝したことと、結果的にハードな海外遠征を乗り越えられたことが、代表切符につながったと思います」

五輪特有の重圧すら「楽しみ」

 日本卓球協会の理事会でリオ五輪の代表候補が決まった2015年9月19日、東京のナショナルトレーニングセンターにいた伊藤は、理事会が開かれていることをすっかり忘れていた。

「『会見があるから準備して』ってスタッフの人に言われて、あっ、今日だったんだって。3人目もランキングで決めるって言われていたけど、ほんとにそうなるのか不安があったのでうれしかった」

 福原、石川と並んで報道陣から抱負を聞かれたとき、初めて五輪代表に選ばれた実感が湧いてきたという。

「最初にうまく言葉が出なくて、ちょっとかんじゃったんです。あれっ、これもオリンピックだからかなって(笑)。今は早くリオの本番がきてほしくて、わくわくしています。オリンピックでしか感じられない重圧というのがどんなものなのか、それを体験するのも楽しみなんです」

福原「不安がないほうが絶対に強くなれる」

 15歳でのオリンピック出場は、福原に続く快挙である。だが、同じ年齢で比較すれば、2人の天才卓球少女の心模様は全く違うのではないか。

 以前、福原にその当時の思いを聞いたことがある。努力をして勝つたびに重圧と不安が増していったという国民的ヒロインは、少し哲学的なことを口にした。

「その不安が、私を強くしてくれたことは間違いありません。でも、不安と向き合うことなく成長したほうが、絶対に強くなれると思うんです」

 このとき、福原は「不安がないほうが成長する」という仮説を誰にもあてはめることができなかった。だが今、代表のチームメイトになった15歳は、まさにその対象にぴたりとあてはまる。

「どんな大きな舞台で、どんなに強い選手が相手でも、緊張したり、重圧や不安を感じたことはありません。卓球が大好きだから、どんな局面でも楽しい」と言い切る新たな“福原2世”は、リオの舞台でどんなプレーを披露し、東京へ向けた糧をどんな形で手にいれるのだろう。

「これまでの美宇ちゃんとは別人だった」

 オリンピックイヤーを迎えた1月の全日本選手権女子シングルス準決勝で、伊藤は平野美宇にストレートで敗れた。

「卓球はもちろん、表情や気持ちもこれまでの美宇ちゃんとは別人のようでした」

 会見でそう語った伊藤の瞳は、涙でうるんでいた。五輪選考で悔しい思いをしたライバルの強い気持ちと成長は、15歳の五輪候補の胸に新たなモチベーションを刻んでくれたはずである。

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